「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている」のに、臨終説法を依頼した人は眼目とされていないのか?

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」(『なぜ生きる』p.343)

高森会長は著書にこのように書いて、弥陀の本願は一刹那に臨終の迫っている、最悪の人をも救う本願だと説明しています。ところが一方では、

 私は時々、悲惨な臨終説法を依頼されることがある。たまたま不治の病を自覚していざ後生と踏み出すと、魂は真っ暗な未来に泣くのである。
 今まで命にかえて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、何一つあて力になるものがなかったことに、驚き悲しむのである。
 そして眼前に開けるものは、無底の黒闇あるのみである。過日も、臨終の迫ったTさんは、ポロポロと落涙しながら「先生、私は六十何年間、何をしてきたのでしょうか。何の為に苦労してきたのでしょうか。馬鹿でした、馬鹿でした」と自らの握り拳で、ガンガン頭を叩いて泣かれた。これが、弥陀の本願に救われない一切の人々の終末の相なのか。弥陀の本願に値えない人間ほど、悲劇的動物は外にはあるまい。(『白道燃ゆ』p.82~p.83)


とも書いています。Tさんに何を話したのかは定かではありませんが、ガンガン頭を叩いて泣かれたということは、一刹那に臨終の迫っている人でも救う本願を説いて聞かせてあげなかったのでしょうか? 臨終説法を依頼した人は眼目とされていないでしょうか? 当時親鸞会では宿善薄い者は信心獲得はあり得ないとし、宿善を求めよと教えていましたから、Tさんのような臨終の迫った人は後生の恐怖ばかり教えられて救いは説かれなかったかも知れません。今では教義が変わって(加わって)、三願転入しなければアリ一匹助からないとし、獲信目指して19願の善をせよと教えていますので同様に臨終の迫った人は助かりません。

勿論、只今平生に本願を信じ念仏申す身になって頂きたいですが、臨終の迫った人でも救いからは除かれていません。『観無量寿経』には、下品下生の者が臨終に善知識に遇い、その教えを聞いて念仏し、救われたことが説かれています。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。「次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける」


親鸞会では、この部分では罪悪ばかりをやかましく説きます。一声の念仏に八十億劫の罪を消す力があると説明することもありますが、そのような念仏よりも諸善(という名の勧誘、献金、無条件服従など)を勧めてきます。今臨終という人に話すべきなのは「(必堕無間の意で)後生は一大事だ」ではなく「弥陀をたのめ」ということです。それは決して今臨終という人だけではありません。平生と臨終は隣り合わせですから、当然平生元気な人にとってもです。そう話さないような者は善知識ではありません。まして地獄の恐怖を説いて会員を縛り付け、助かるには献金せよ、勧誘せよ、ワシの指示に無条件に従えと迫るような者は悪知識であり、仮善知識、偽善知識、邪善知識、虚善知識、非善知識、悪善知識、悪性人であります。
今年のゴールデンウィークも、平生元気な人が突然臨終を迎えられたという事故がいくつもありました。明日は我が身、決して他人事ではありません。平生と言わず、臨終と言わず、信心を得たその時に往生が定まるという本願の救いに只今遇わずしては、親鸞聖人の教えを聞いている所詮がありませんし、聖人の御心にも反するというものです。

『白道燃ゆ』のこの部分を読んで、私は「臨終に後悔しても遅いのだから、元気な今頑張って求めよう」などと考えておりました。高森会長の狙いは、臨終に間に合わなければ必堕無間だから真剣に求道(活動)しようという意欲を湧き立たせることでしょう。普通に今臨終が来ても決しておかしくはないし言い過ぎではないのに、宿善を求めよだとか、19願の善をせよだとか、往生・獲信と無関係なことばかり説いている高森会長。『白道燃ゆ』の文章のように臨終の人を引き合いに出す目的は、会員に救われてもらうためではなく、無常感と罪悪感を煽って活動してもらうためだということです。一日も早く会員の皆さんには、高森会長が朝夕思っていることは「信心決定あれかし」ではなく「組織拡大あれかし」であると気づいて頂きたいと思います。
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No title

親鸞会は、「救いは一念の早業でも、そこに至るまでに多生永劫の膨大な時間がかかるのでは、命一刹那につづまる無常迅速の機には間に合いませんね」とツッコミを入れると絶句します。
面白いですよ。

>maelstrom様

それは面白いですね。会もそういうツッコミに慣れてくると

「あなたは後生の一大事が自分自身の問題となっていない」

とか関係ない方向へ言い返しそうですけど、それでも

「あなたは自分自身が無常迅速の機であると分かっていませんね。また、全ての人は無常迅速の機ではないのですか?」

とでも返してあげたらどうかと思いました。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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