親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『後世物語聞書』に、三願転入の教えはない(4)

本日も『後世物語聞書』を通して、親鸞聖人の教えと親鸞会教義との相違点を見ていきたいと思います。

【6】またあるひとのいはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとしひさしくなりゆけども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろくなる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあらねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこそ候へ。
 師のいはく、このことひとごとになげく心根なり。まことに迷へるこころなり。これなんぞ浄土に生ぜんといふみちならんや。すべて罪滅すといふは、最後の一念にこそ身をすててかの土に往生するをいふなり。さればこそ浄土宗とは名づけたれ。もしこの身において罪消えば、さとりひらけなん。さとりひらけば、いはゆる聖道門の真言・仏心・天台・華厳等の断惑証理門のこころなるべし。善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心にふたつの釈あり。ひとつには、「ふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」とすすめて、つぎに、「弥陀の誓願の深重なるをもつて、かかる衆生をみちびきたまふと信知して、一念も疑ふこころなかれ」とすすめたまへり。このこころを得つれば、わがこころのわろきにつけても、弥陀の大悲のちかひこそ、あはれにめでたくたのもしけれと仰ぐべきなり。もとよりわが力にてまゐらばこそ、わがこころのわろからんによりて、疑ふおもひをおこさめ。ひとへに仏の御力にてすくひたまへば、なんの疑かあらんとこころうるを深心といふなり。よくよくこころうべし。


ここでは深心について説明がなされています。
「念仏すれば、声々にこれまでの数え切れないほどの生死の罪が消えて、光明に照らされ、心も柔和になる説かれていると聞きます。しかし、念仏して何年にもなりますが、三毒の煩悩は少しも消えず、心もいよいよ悪くなり、よい心が日々進むこともありません。そんな状態である時には、阿弥陀仏の本願を疑うわけではないのだけれど、我が身の悪い心根では、たやすく浄土へ生まれるという大事は遂げにくいと思うのですが…」
という質問に対して、二種深信を示し、「ひとえに仏の御力で救われるので、なんの疑いがあろうかと心得るのを深心という」と教えられています。二種深信のうち、機の深信については、

「ふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」

と書かれています。これは、善導大師の

・一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(散善義)
・二つには深心。すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知す。(往生礼讃)


という二つのお言葉を合わせたような言葉ですね。
親鸞会ではこの二つの内、上のお言葉のみを用いて「信心決定すると地獄一定の自己が知らされる」などと言っております。ここでの「地獄一定」とは、会の教義を聞く限り逆謗の屍、必堕無間の自己が知らされるということです。アニメ『王舎城の悲劇』では、イダイケが定善を実践しようとしたができず、「地獄しか行き場のない私でした~」と泣き崩れる様子が描かれています。更には、自分だけでなく一切衆生が必堕無間であるとも知らされるようです。こうした邪義を聞き続け、会員さんは信心決定するとさとりを開いたような、すごい智慧が具わるというように誤解しています。
しかし機の深信で仰っていることは、「一切衆生が逆謗の屍、必堕無間と知らされる」ということではありません。「自身は迷いの世界を出離できない者」ということです。機の深信のお言葉は、自力無功、捨自、捨機を表しているのです。その理由が、罪悪生死の凡夫であるから、というものです。罪悪生死の凡夫であるから流転してきたのであって、必堕無間ということではありません。
それは『礼讃』のお言葉と合わせて見てみるとよく分かります。下のお言葉では、自身は煩悩具足の凡夫であり、善根が薄少であるから、三界に流転して、火宅(迷いの世界)を出ることができないと書かれています。また、『散善義』のお言葉と少し異なり、『礼讃』では「善根薄少」とあります。「善根薄少」であって「無善根」ではありません。無善根ならば親鸞会の主張に少しは筋が通るかもしれませんが、そうではありません。それに、微塵の善もできないと言いながら19願や定散二善を根拠に善を勧めているので、それだけでも全く筋の通らない、矛盾だらけの邪義であると分かります。たとえ私達に19願の善、定散二善ができるにしても、親鸞聖人のお勧めは18願他力念仏です。


ところで、「散善義」の二種深信のお言葉の少し後に、以下のお言葉が書かれています。

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。(散善義)

『安心問答』「阿弥陀仏の本願に救われるには、まずお釈迦さまの教えに従って行かねばならない。お釈迦さまの教えは善の勧めだから、善に励まねばならない」と親鸞会で聞いていますが、本当でしょうか?(頂いた質問)

に解説がなされていますが、仏の教えを誤って伝えているのが親鸞会であり、仏の教えに従っていないのが会員と言えましょう。これでは到底真の仏弟子などなれようはずもありません。会員さんを仮の仏弟子、偽の仏弟子に陥らせているのは親鸞会であり、高森会長です。会員さんには早く邪義を捨て去って、仏教に随順し、仏意に随順し、仏願に随順する真の仏弟子となって頂きたいものです。
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本日も『後世物語聞書』を通して、親鸞聖人の教えと親鸞会教義との相違点を見ていきたいと思います。【6】またあるひとのいはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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