一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。

本日は、持名鈔を通して浄土真宗の教えと親鸞会教義の相違点を見ていきたいと思います。なお親鸞会が『持名鈔』の一部を『教学聖典(5)』において断章取義し、勧誘及び献金に利用していることは【新入生注意】カルト親鸞会【マインドコントロールは自覚なし】33などで指摘されている通りです。

【3】ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師 なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。 如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。これによりて釈尊はこの法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したまへり。かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。

念仏往生の一門は、末代の私達の根機に相応した往生浄土の要の教えであり、この念仏の教えこそ往生が決定する正しき因であります。

それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。(御文章3帖目2通)

とあるように、仏教の様々な法門はみな釈迦一代の説教ですから、いずれも殊勝の法であります。なので、それを如説に修行する人は成仏得道することは疑いありません。しかし、末代の私達は機根最劣であるため、その通り修行することができません。教えがあってもその通り行ずる人がいなければ、当然証果を得る人もいないわけで、私達にしてみればその教えは高根の花なのです。
ですから、阿弥陀仏は今の世において、このような時代の機根の劣った者を目当てに助けようとして他力本願を建立し、相応の修行をなされて本願を成就なされたのです。その教えが念仏往生の一門であるということです。

ところが、この念仏往生の教えにおいて、専修・雑修の二門があるというのです。まず専修とは、

専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。

とあり、ただ阿弥陀仏一仏の悲願に帰依し、往生行として一筋に称名念仏の一行をつとめて他事、つまり念仏以外の余行(雑行)をまじえないことです。次に雑修とは、

雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。

とあるように、専修の人と同じように念仏をつとめてはいますが、兼ねて他の仏・菩薩を念じ、また念仏以外の一切の行業を修めていることです。親鸞会では他の仏・菩薩に仕えるのはダメだと言いますが、一方で定散二善、布施、持戒などを根拠に善という名の献金、勧誘、無条件服従を勧めています。目的は一応迷いの世界を出離するということなので、往生行として勧めていることになります。これでは「余の一切の行業をもくはふる」雑修の一門まがいの単なる一新興宗教でありましょう。こんな教えを信じている会員さんがいつまでも専修になれないのは頷けますね。
では、この専修と雑修の二門のうち、どちらが決定往生の業かと言えば、当然ですが

このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。

とあるように専修の一門であります。なぜかというと、称名念仏は弥陀の本願の行だからです。お釈迦様が阿難尊者に付属された法だからです。諸仏方が真実であると証明している行だからです。
阿弥陀仏はかの昔、衆生の往生を決定するために、しばらく法蔵菩薩となって凡夫が往生する行、たねを選び定められました。その時、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろの行を往生行としては脱落者が続出してあまねく衆生を助けられないと選び捨てて、称名念仏の一行を往生行、往生のたねとして選び取り、本願を建てて下されたのです。

かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。

そのことは、『選択本願念仏集』にも明らかです。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。 ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(本願章)


そして、どのような本願を建てて下されたかというと、

「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひし

とあって、「念仏の行者が若し浄土に往生しなければ、私も決して仏に成るまい」とお誓い下されたのです。「若不生者」の「生」が信楽に生まれるなどという意味は、ここからも見ることはできません。

この念仏往生の本願は既に成就しています。どうして衆生の往生を疑いましょうか。これによってお釈迦様は阿難尊者に選んでこの専修念仏の法を付属し、諸仏はこの念仏往生の法門が真実であることを証明なされているのです。ですから一向に名号を称する人は、釈迦弥陀の二尊の御心にかない、諸仏の本意に順うために往生は決定だと仰せられています。
それに対して、定散二善、布施、持戒等の諸行はそうではありません。それは、弥陀選択の本願ではないからです。お釈迦様が付属された教えではないからです。諸仏が真実であると証明している法ではないからです。

これによりて釈尊はこの法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したまへり。かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。

以上のように、弥陀選択の本願ではなく、お釈迦様が付属された教えでもなく、諸仏が真実であると証明している法でもない定散二善、布施、持戒等を根拠として、獲信を目指して善をせよなどと教える親鸞会は、専修念仏のともがらではないことは明らかです。会員さんは会長のミココロとやらにはかなっていても、釈迦弥陀の二尊の御心にはかなっておりません。上司の本意には順っていても、諸仏の本意には順ってはおりません。このままでは流転は免れませんから、雑修の一門もどきの邪義は早く捨てて、専修念仏の人となって報土往生を決定して頂きたいと思います。
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まとめtyaiました【一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑな

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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