雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦の所説にたがひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり

一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。

の続きです。まずは、『持名鈔』原文をご覧ください。

【4】されば善導和尚の『往生礼讃』(六五九)のなかに、くはしく二行の得失をあげられたり。まづ専修の得をほめていはく、「もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十はすなはち十ながら生れ、百はすなはち百ながら生る。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願に相応するがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑに」といへり。「外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに」といふは、雑行雑善をくはへざれば、そのこころ散乱せずして一心の正念に住すとなり。「仏の本願と相応するがゆゑに」といふは、弥陀の本願にかなふといふ。「教に違せざるがゆゑに」といふは、釈尊のをしへに違はずとなり。「仏語に随順するがゆゑに」といふは、諸仏のみことにしたがふとなり。
 つぎに雑修の失をあげていはく、「もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百のときにまれに一二を得、千のときにまれに五三を得。なにをもつてのゆゑに。雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるによるがゆゑに、教と相違するがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せざるがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、貪・瞋・諸見の煩悩きたりて間断するがゆゑに、慚愧してとがをくゆることなきがゆゑに、また相続して仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我みづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁にちかづきて、往生の正行を自障障他するがゆゑに」といへり。雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦の所説にたがひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり。
 なほかさねて二行の得失を判じていはく、「意をもつぱらにしてなすものは、十はすなはち十ながら生る。雑を修して心を至さざるものは、千のなかにひとりもなし」といへり。雑修のひとの往生しがたきことをいふに、はじめには、しばらく百のときに一二をゆるし、千のときに五三を挙ぐといへども、のちにはつひに千人のなかにひとりもゆかずと定む。三昧発得の人師、ことばを尽して釈したまへり。もつともこれを仰ぐべし。


前回の確認ですが、専修とは、

ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。

雑修とは、

雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。

を意味していました。

ただ阿弥陀仏一仏の悲願に帰依し、往生行として一筋に称名念仏の一行をつとめて他事、つまり念仏以外の余行(雑行)をまじえない専修の人を、善導大師は誉めて

「もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十はすなはち十ながら生れ、百はすなはち百ながら生る。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願に相応するがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑに」

と仰っているというのです。仏の本願とは弥陀の本願、教とは釈尊の教え、仏語とは諸仏の御言葉ということです。前回を振り返りますと、弥陀の本願とは弥陀選択の本願ということで、第十八願の教法を指しています。釈尊の教えとは釈尊付属の教のことで、阿難尊者に付属された念仏の教え、つまり第十八願の教法です。諸仏のお言葉とは諸仏証誠の法のことで、やはり第十八願の教法であります。これが分かれば、

利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆゑに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし(高僧和讃)


が三願転入を表しているわけがないでしょう。例えば、もしここでの「教」が第十九願を意味するのならば、専修の人とは余行をまじえない人ですから、その専修の人が余行を兼ねる人となりおかしな話になります。親鸞会では無理矢理三願転入の教えにもっていきたいらしく、「教」を第十九願、「仏語」を第二十願と説明していますが、大元の善導大師の解釈にもそのようなものはなく、『持名鈔』からもそんな珍説は存在しないことを会員さんには知って頂きたいものです。

次に、専修の人と同じように念仏をつとめてはいますが、兼ねて他の仏・菩薩を念じ、また念仏以外の一切の行業を修めている雑修の人の欠点を、善導大師は

「もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百のときにまれに一二を得、千のときにまれに五三を得。なにをもつてのゆゑに。雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるによるがゆゑに、教と相違するがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せざるがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、貪・瞋・諸見の煩悩きたりて間断するがゆゑに、慚愧してとがをくゆることなきがゆゑに、また相続して仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我みづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁にちかづきて、往生の正行を自障障他するがゆゑに」
(もっぱら念仏することを捨てて、雑行を修めるものは、百人の中でもまれに一、二人、千人の中でもまれに三、四人が往生できるだけである。なぜなら、さまざまなことに乱されて信心を得られないからであり、阿弥陀仏の本願にかなっていないからであり、釈尊の教えと相違するからであり、仏がたの教えにしたがっていないからであり、浄土に思いをかけ続けられないからであり、阿弥陀仏を思う心が途切れるからであり、往生を願う心が真実でないからであり、貪りや怒りや、よこしまな考えなど、さまざまな煩悩がおこって思いが途切れるからであり、慚愧の心、懺悔の心がないからであり、仏の恩に報いる思いが続かないからであり、おごり高ぶる心が生じて行を修めるといっても、常に名誉欲や利益欲から離れられないからであり、<わたしが>というとらわれの心におおわれて、同じ念仏の行者や善知識に親しみ近づくことがないからであり、好んでさまざまな悪に近づき、自分および他人が本願の名号をいただいて浄土に往生する道をさまたげるからである)

と仰っています。修善の勧めなどと聞こえのいいことを言って実態は献金や勧誘を勧め、もっぱら念仏することを捨てているのが親鸞会ですから、道理で救われている人が皆無と言っていいほどいないわけです。善もどきの善をやっていてもとても雑修の人とは言えませんが、

雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦の所説にたがひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり。

と言われているように、第十八願の教法に背き、違い、かなっていないのが親鸞会会員です。もっとも、弥陀の本願、釈迦の所説、諸仏の証誠を間違って教えられているのですから当然なのですが・・・


「もっぱら念仏することを捨てて、高森信心に住するものは、百人の中でもまれに一、二人、千人の中でもまれに三、四人が往生できるだけである。なぜなら、親鸞会教義という邪義に乱されて信心が得られないからである。阿弥陀仏の本願(第十八願)にかなっていないからである。釈迦付属の教を第十九願と教えられて教と相違しているからである。諸仏証誠の法を第二十願と教えられて仏語にしたがっていないからである。絶対の幸福とやらを追い求めて浄土に思いをかけ続けられないからである。会長や上司のことばかり考えて阿弥陀仏を思う心が途切れるからである。往生を願う心が不実だからである。貪りや怒りや、よこしまな考えなど、さまざまな煩悩がおこって思いが途切れるからである。不倫疑惑を起こしても、正体を隠した偽装勧誘をくり返し続けていても、約束の一つも守れなくても慚愧の心、懺悔の心がないからである。会長の御恩ばかり聞かされて仏恩に報いる思いがないからである。心におごり高ぶって親鸞会以外の他人を見下しあなどる思いを抱いているからである。そういう心で活動するといってもいつも名誉や利益を求めているからである。<わたしが>というとらわれの心におおわれて念仏の行者や善知識に親しみ近づくことがないからである。好んでさまざまな悪に近づき、自分および他人が本願の名号をいただいて浄土に往生する道をさまたげているからである。」
雑修の十三失を親鸞会に当てはめてみましたが、これは正しく会員の姿でしょう。なお、この文章では百人中一、二人、千人中三、四人は往生するように書かれていますが、

なほかさねて二行の得失を判じていはく、「意をもつぱらにしてなすものは、十はすなはち十ながら生る。雑を修して心を至さざるものは、千のなかにひとりもなし」といへり。雑修のひとの往生しがたきことをいふに、はじめには、しばらく百のときに一二をゆるし、千のときに五三を挙ぐといへども、のちにはつひに千人のなかにひとりもゆかずと定む。三昧発得の人師、ことばを尽して釈したまへり。もつともこれを仰ぐべし。

と言われているように雑修の人でも千中無一ですから、高森信心に住する会員が万中無一、億中無一であることは言うまでもありません。早く高森信心を捨て去って、真実信心に基づき念仏をもっぱらにして頂きたいと思います。
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まとめtyaiました【雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦の所説にたがひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり】

一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあ...

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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