おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり

親鸞会では一向専念無量寿仏は仏教の結論だなどと教えていますが、それがどういう意味かはさっぱりわかっていないようです。阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に仕えないことだけを一向専念無量寿仏だと思っていたら大間違いです。『持名鈔』には、

【5】おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。
 しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経・下)の文なれば、まことにことわりなるべし。そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。
 おほよそ持戒・坐禅のつとめも転経・誦呪の善も、その門に入りて行ぜんに、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行なるがゆゑに、凡夫の身には成じがたし。われらも過去には三恒河沙の諸仏のみもとにして、大菩提心を発して仏道を修せしかども、自力かなはずしていままで流転の凡夫となれり。いまこの身にてその行を修せば、行業成ぜずしてさだめて生死を出でがたし。されば善導和尚の釈(散善義 四七二)に、「わが身無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位にすすみて、因まどかに果熟す。聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで、虚然として流浪す」といへるはこのこころなり。しかれば、仏道修行は、よくよく機と教との分限をはかりてこれを行ずべきなり。すべからく末法相応の易行に帰して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。


とあります。19願や定散二善、七仏通戒偈等を根拠に諸行諸善(もどき)を勧めていたら、「諸行をまじふべからず」に反するでしょう。そうやって諸行諸善に心をかけているから、いつまでも無量寿仏に一向専念できないのだと知るべきです。
また、善導大師、法然聖人、親鸞聖人のお勧めは諸善ではなく念仏です。正確に言うと、一向専修の念仏、つまり18願他力の念仏です。

まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

本当にこの度往生を遂げようと思う人に、何を勧めておられるか。「かならず三願転入すべきものなり」でも「かならず諸善を行ずべきなり」でもありません。「かならず一向専修の念仏を行ずべきなり」です。

ところで、本当に一向専修になる人は極めて稀であり、その理由として、

いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。

と案じられると書かれています。会員さんにとっては後半部分はよいとして、問題は前半部分です。まぁ親鸞会の活動など仏教の行というにはあまりにもおこがましいですが、今までやってきた活動は捨てがたいものです。活動すれば横の線を進み、縦の線に近づき、やがて信心決定、絶対の幸福、無碍の一道と信じてやってきたのですから、活動年数や活動量が多い人ほど簡単には断ち切れないでしょう。これはすなわち、

念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

念仏の中に万行万善がこもっていることを知らず、弥陀に帰命すれば諸仏の御心にかなうということを信じないで、如来の功徳を疑い、念仏の力を不安に思っているからです。邪義を真に受けているのもありますが、南無阿弥陀仏だけでは不足に思うからこそ活動をし、考えもがいて何とか救いに近づこうとするのでしょう。そのような私から阿弥陀仏へ向かおうという考え方と、阿弥陀仏から私へ本願力を廻向して救おうというおはたらきとは向きが逆さまですから、阿弥陀仏と私はいつまでも平行線をたどります。ド真剣な聴聞をしなければだの、三願転入の道を進まねばだの、後生に驚きが立たねばだの、自分の方ばかり問題にして自己ばかり見て、如来さまをおろそかにして仰せを聞こうとしないのですから、それじゃダメですわ。自分のどこを見渡しても後生助かるてがかりはないと知って、如来の本願を仰がなきゃ。「助けるぞ」をすなおに聞く。それがそのまま信心です。

様々な聖道門の修行も、元は聖道行ですがそれを浄土往生を願って修める定散の観法行も、それらはみな聖人の修行であって凡夫にはとても行ずることのできない教えであります。私達も過去には三恒河沙の諸仏のみもとで、大菩提心を発して仏道を修めて参りましたが、自力では出離できず今まで流転の凡夫でありました。今この身にてそのような修行をしても行業が成就せず、生死を出ることができないのは必至です。ですから善導大師のお言葉にも、

「わが身無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位にすすみて、因まどかに果熟す。聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで、虚然として流浪す」
わが身は、無際よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転してきた。)

とある通りです。このようなことですから、落ちこぼれの凡夫である私達としては

すべからく末法相応の易行に帰して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。

末法相応の易行である阿弥陀仏の第十八願他力念仏の教えに帰依して、浄土往生の本懐を遂げなさいと教えられています。邪義は速やかに捨てて、善知識方のお勧めに順って本願を信じ念仏して頂きたいと思います。
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まとめtyaiました【おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり】

親鸞会では一向専念無量寿仏は仏教の結論だなどと教えていますが、それがどういう意味かはさっぱりわかっていないようです。阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に仕えないことだけを一...

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念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。

善智識の能は一向専念無量寿仏とすすめること
人に自分を崇めさせて平気でいたり、雑行をすすめたり、諸善で排他したりするのは善智識ではない

しかし煩悩あるがゆえか、理解できてしまう。
高森さんらみたいになっちゃいけない、という具体例かも

>高森秘事様

親鸞会では諸善(献金、勧誘)をつとむべしですから真宗でもありませんし仏教でもありません。

存覚上人は高森会長のような人物が出てくることを想定されているかのように教えられています。仰るように具体例かも知れません。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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