自余の浄土宗においても、信じ称ふるという一点においては、まったく共通でなければなりません

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  五 聞名の生活

  

 法然上人門下の西山、鎮西の派祖はいうに及ばず、その他の門下の人々もただ無意味に称えていたのではなく、称ふる者を救わんとの仏の本願を信じて称えたにちがいはありません。
 法然上人の『選択集』に「涅槃の城には信を以て能入とす」とか、「念仏の行者かならず三心の具すべし」とか申されていますが、門下の方々はこれを見のがされたわけでもないでしょう。はたしてそうであれば、自余の浄土宗においても、信じ称ふるという一点においては、まったく共通でなければなりません。それらの方々は決して単行無信の念仏であるとは言われません。

(p.45)



・〈易行道〉とは、いはくただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗りてすなはちかの清浄の土に往生することを得。(二門章)
・念仏の行者かならず三心を具足すべき文。(中略)
わたくしにいはく、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はいかんぞ。『経』(観経)にはすなはち、「具三心者必生彼国」といふ。あきらかに知りぬ、三を具すればかならず生ずることを得べし。『釈』(礼讃)にはすなはち、「若少一心即不得生」といふ。 あきらかに知りぬ、一も少けぬればこれさらに不可なり。これによりて極楽に生れんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし。(三心章)
・まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(同)


諸行と念仏とを比較され、難行であり劣行であると本願に選捨された諸行を捨てて、至って易くしかも最も勝れた行として本願に選択された念仏一行を勧められた法然聖人ではありますが、上の御文等を見れば分かるように単行無信の念仏で救われるなどとは仰っていません。極楽に生まれようと思うなら、必ず三心(至誠心、深心、回向発願心)をそなえなさいと教えられています。

親鸞聖人は、この三心は『観経』顕説に見られるような自力の行者がおこす自力の三心ではなく、隠彰の義として表され、『大経』の三心(至心、信楽、欲生)と組み合う、本願力によって回向される他力の三心であると明らかにされています。そして、往生の行も信も、全て阿弥陀仏から与えて下さるというのです。

問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
(中略)
まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。

(問うていう。『無量寿経』に説かれている至心・信楽・欲生の三心と『観無量寿経』に説かれている至誠心・深信・回向発願心の三心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。  その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。
(中略)
これによって、まことに知ることができた、すなわち『観無量寿経』には顕彰隠密の義があることを。『無量寿経』の三心と『観無量寿経』の三心とが同じであるか異なるかを述べるにあたっては、よくこのことを考えなければならない。この二つの経は顕の義によれば異なるが、彰の義によれば同じである。よく知るがよい。)


しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(信文類)
(このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。)

いろいろと申しましたが、要は本願の仰せ(助けるぞよ)を信じ念仏を申しなさいとのお勧めです。法然・親鸞両聖人はこのこと一つお勧めになっていると言えるでしょう。助けるぞよを受けて、必ずお助けにあずかると信じてなんまんだぶつと称える。これだけです。これが念仏往生の法門であり、こむずかしい知識や行は一切必要ありません。
この本願の行信を聞かせて頂くのが聴聞であります。この迷いの世界を離れよう、そして極楽に生まれようと思うなら、両聖人が教えられたこの念仏往生の本願を聞き、信じ念仏して頂きたいと思います。
スポンサーサイト

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

まとめtyaiました【自余の浄土宗においても、信じ称ふるという一点においては、まったく共通でなければなりません】

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用   五 聞名の生活   三 法然上人門下の西山、鎮西の派祖はいうに及ばず、その他の門下の人々もただ無意味に称えていたのではなく、

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード