「自余のもろもろの善も、これ善と名づくといへども、もし念仏にたくらぶれば、まつたくならべたくらぶべきにあらず」との教えを知らず、念仏より余善を勧める親鸞会

もし、念仏は保ちやすいばかりで功徳は念仏以外の善よりも劣るならば、同じくつとめながらもその張り合いはないでしょうが、念仏は行じやすくしてしかも功徳は諸善にすぐれ、修めやすくしてしかも利益は他の善よりもすぐれています。

【6】そもそも、この念仏はたもちやすきばかりにて功徳は余行よりも劣ならば、おなじくつとめながらもそのいさみなかるべきに、行じやすくして功徳は諸行にすぐれ、修しやすくして勝利は余善にすぐれたり。弥陀は諸仏の本師、念仏は諸教の肝心なるがゆゑなり。これによりて、『大経』には一念をもつて大利無上の功徳と説き、『小経』には念仏をもつて多善根福徳の因縁とするむねを説き、『観経』には念仏の行者をほめて人中の分陀利華にたとへ、『般舟経』(意)には「三世の諸仏みな弥陀三昧によりて正覚を成る」と説けり。このゆゑに善導和尚の釈(定善義 四三七)にいはく、「自余衆善 雖名是善 若比念仏者 全非比校也」といへり。こころは、「自余のもろもろの善も、これ善と名づくといへども、もし念仏にたくらぶれば、まつたくならべたくらぶべきにあらず」となり。またいはく、「念仏三昧 功能超絶 実非雑善 得為比類」(散善義 四九九)といへり。こころは、「念仏三昧の功能、余善に超えすぐれて、まことに雑善をもつてたぐひとすることを得るにあらず」となり。
 ただ浄土の一宗のみ念仏の行をたふとむにあらず。他宗の高祖またおほく弥陀をほめたり。天台大師(智顗)の釈(摩訶止観)にいはく、「若唱弥陀  即是唱十方仏 功徳正等 但専以弥陀 為法門主」といへり。こころは、「もし弥陀を唱ふれば、すなはちこれ十方の仏を唱ふると功徳まさにひとし。ただもつぱら弥陀をもつて法門の主とす」となり。また慈恩大師の釈(西方要決)にいはく、「諸仏願行 成此果名 但能念号 具包衆徳」といへり。こころは、「諸仏の願行、この果の名を成ず。ただよく号を念ずれば、つぶさにもろもろの徳を包ぬ」となり。おほよそ諸宗の人師、念仏をほめ西方をすすむること、挙げてかぞふべからず。しげきがゆゑにこれを略す。ゆめゆめ念仏の 功徳をおとしめおもふことなかれ。(持名鈔)


このように、浄土三部経をはじめ『般舟三昧経』にも念仏の功徳を説かれ、善導大師も諸善と比較して念仏の功徳がそれに超え勝れていると教えられ、他宗の高祖に至るまで念仏の功徳を誉め讃えていると書かれています。

親鸞会では弥陀は諸仏の本師であるとは教えますが、念仏は諸教の肝心だなどとは言いません。

阿弥陀仏
諸仏
諸菩薩
諸神

と黒板に書いてそれぞれを丸で囲み、我々を助ける力があるのは阿弥陀仏一仏だとするのはまぁいいでしょう。ところが、では表立って勧められているのは何かと言えば、本願の名号ではなく19願や定散二善を根拠とした善(献金、勧誘)であります。
何度も書いていることですが、諸仏、諸菩薩、諸神に仕えないことだけを一向専念無量寿仏というのではありません。念仏以外に余行をまじえないことも含めて一向専念無量寿仏というのです。

・おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。(持名鈔)
・しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。 すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(選択集 三輩章)


言葉は『大経』のお言葉を用いていても、その内容が異なっていては教えは正しく伝わりません。善導大師は

・「自余のもろもろの善も、これ善と名づくといへども、もし念仏にたくらぶれば、まつたくならべたくらぶべきにあらず」
・「念仏三昧の功能、余善に超えすぐれて、まことに雑善をもつてたぐひとすることを得るにあらず」


と教えられ、法然聖人は

あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

と教えられ、親鸞聖人も「行文類」にて念仏と諸善とを比較し、相対して論じられ、いずれもいずれも念仏が諸善に超え勝れていることを明らかにされ、念仏一行を本願の行としてお勧めになっておられます。

ところが高森会長はどうでしょう。

・善をしなければ信仰は進みません
・獲信と修善はよい関係にある
・獲信の因縁として善を修せよ


と教えているのが高森会長です。善知識方の教えと如何に違うか。廃せよと仰っているものを修めよと言っているのですから、真逆であることがお分かりですね。

このように善知識方の教えに反することをさも善知識方の教えだと偽って説いているのですから、聞いている者がいつまでも一向専念無量寿仏の身になれないのは当然です。会員さんには三願転入の道だなどと下らない邪義に惑わされず、直ちに本願一実の直道に帰して念仏し、報土往生の本懐を遂げて頂きたいと思います。
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もし、念仏は保ちやすいばかりで功徳は念仏以外の善よりも劣るならば、同じくつとめながらもその張り合いはないでしょうが、念仏は行じやすくしてしかも功徳は諸善にすぐれ、修めや...

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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