ここに私たちは他力の救いの一大難関にぶち当らねばならないことになります
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
五 聞名の生活
四
いま、称名が大行と言われるか、どうかは、信の有・無に関してではなく、ただその信が純か不純の相違、つまり信の内容吟味、信の信としてのためには、いかにあるべきかというような問題の解決によって決定されるべきであります。これを明確にするものは親鸞聖人の『教行信証』のほかはありません。
五
いまその『教行信証』に、信心とはいかなるものであるかを窺ってみますと、その信というものがいささかなりとも、個人の体験をたのんだり、あるいは念仏を称える力をたのんだりすることをふくんでいるとすれば、その信は不徹底であります。つまり行の上に称える力が少しでも執着せられるのであれば、それは自力の念仏でありまして、如来廻向の大行の体験ではありません。
また信というものにおいても、息慮凝心とか、廃悪修善とかの自分の主観の考えを加えたものであれば、それは定散自力の信であります。だからこれらはいづれも純粋の真信ではなく、自力の信心であります。
こういう自力の信、自力の行は相互いに証明し批判する力がありませんから、表面には独断的であり、同時に裏面では懐疑的であります。親鸞聖人が「自性唯心に沈む」と申されたのは、この独断的な心を言われたものであります。またこれに対し、懐疑論は定散自力の心をたのむものです。自分の事は自分がよく知っていると申すことがありますが、これは、小さな独我の世界に立てこもって何者の言葉も容れない独断論です。これは胎生往生として、宮段の中に包まれて、永く三宝を見聞することができません。定散の自心に迷う懐疑論も同じことです。ここに私たちは他力の救いの一大難関にぶち当らねばならないことになります。
(p.45~p.47)
称名が大行と呼ばれるのは、それが阿弥陀仏の清らかな願心より与えて下さったものだからです。称名による功徳をたのんでいるようでは、それは自力の念仏でありまして本願力廻向のものではありませんから大行とは言われません。
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(行文類)
(つつしんで往相の回向をうかがうと、大行があり、大信がある。大行とは、無礙光如来の名号を称えることである。この行は、あらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえ、速やかに衆生に功徳を円満させる、真如一実の功徳が満ちみちた海のように広大な法である。だから、大行というのである。)
つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。(信文類)
(つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。)
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(同)
(このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。)
称名の功徳によって助かろうとするのは自力の信心でありまして、それでは決して報土往生はなりません。まして難行であり劣行であって、阿弥陀仏と疎遠な行である自力諸善ではなおさらです。それらを修めて「横の道を進もう」「宿善を厚くしよう」「信仰を進めよう」「三願転入の道を進もう」などと考えているのは論外です。
ですが、自力の信心はどうしても方法論にとらわれて、念仏や諸善といった行や、聴聞の仕方・真剣さなどに腰を据えようとするのです。他力の救いの一大難関とはここであると思われます。「助けるぞよ」を聞くのが信だと申し上げても「聞くには?」などと考えてしまうのは、方法論にとらわれている姿です。私達が弥陀の救いにあずかるに「どうしたら」も「どうすれば」もありません。あったらそれを実践すれば助かるのですから。それがないんですからただただ本願の仰せをあおぎ、信じおまかせするばかりです。ただそのように申し上げても「まかせるには?」といたちごっこが始まってしまうかも知れません。このいたちごっこに終止符を打つのは、本願の力強い仰せの外にありません。本願を信じ念仏を申して、報土往生を遂げて頂きたいばかりです。
五 聞名の生活
四
いま、称名が大行と言われるか、どうかは、信の有・無に関してではなく、ただその信が純か不純の相違、つまり信の内容吟味、信の信としてのためには、いかにあるべきかというような問題の解決によって決定されるべきであります。これを明確にするものは親鸞聖人の『教行信証』のほかはありません。
五
いまその『教行信証』に、信心とはいかなるものであるかを窺ってみますと、その信というものがいささかなりとも、個人の体験をたのんだり、あるいは念仏を称える力をたのんだりすることをふくんでいるとすれば、その信は不徹底であります。つまり行の上に称える力が少しでも執着せられるのであれば、それは自力の念仏でありまして、如来廻向の大行の体験ではありません。
また信というものにおいても、息慮凝心とか、廃悪修善とかの自分の主観の考えを加えたものであれば、それは定散自力の信であります。だからこれらはいづれも純粋の真信ではなく、自力の信心であります。
こういう自力の信、自力の行は相互いに証明し批判する力がありませんから、表面には独断的であり、同時に裏面では懐疑的であります。親鸞聖人が「自性唯心に沈む」と申されたのは、この独断的な心を言われたものであります。またこれに対し、懐疑論は定散自力の心をたのむものです。自分の事は自分がよく知っていると申すことがありますが、これは、小さな独我の世界に立てこもって何者の言葉も容れない独断論です。これは胎生往生として、宮段の中に包まれて、永く三宝を見聞することができません。定散の自心に迷う懐疑論も同じことです。ここに私たちは他力の救いの一大難関にぶち当らねばならないことになります。
(p.45~p.47)
称名が大行と呼ばれるのは、それが阿弥陀仏の清らかな願心より与えて下さったものだからです。称名による功徳をたのんでいるようでは、それは自力の念仏でありまして本願力廻向のものではありませんから大行とは言われません。
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(行文類)
(つつしんで往相の回向をうかがうと、大行があり、大信がある。大行とは、無礙光如来の名号を称えることである。この行は、あらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえ、速やかに衆生に功徳を円満させる、真如一実の功徳が満ちみちた海のように広大な法である。だから、大行というのである。)
つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。(信文類)
(つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。)
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(同)
(このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。)
称名の功徳によって助かろうとするのは自力の信心でありまして、それでは決して報土往生はなりません。まして難行であり劣行であって、阿弥陀仏と疎遠な行である自力諸善ではなおさらです。それらを修めて「横の道を進もう」「宿善を厚くしよう」「信仰を進めよう」「三願転入の道を進もう」などと考えているのは論外です。
ですが、自力の信心はどうしても方法論にとらわれて、念仏や諸善といった行や、聴聞の仕方・真剣さなどに腰を据えようとするのです。他力の救いの一大難関とはここであると思われます。「助けるぞよ」を聞くのが信だと申し上げても「聞くには?」などと考えてしまうのは、方法論にとらわれている姿です。私達が弥陀の救いにあずかるに「どうしたら」も「どうすれば」もありません。あったらそれを実践すれば助かるのですから。それがないんですからただただ本願の仰せをあおぎ、信じおまかせするばかりです。ただそのように申し上げても「まかせるには?」といたちごっこが始まってしまうかも知れません。このいたちごっこに終止符を打つのは、本願の力強い仰せの外にありません。本願を信じ念仏を申して、報土往生を遂げて頂きたいばかりです。
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