法は機が開くのですが、それを開かしめられると感ずるとき正定聚であります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  五 聞名の生活

  

 私たちはここにおいて、信の根源である仏の本願というものに眼を開かねばなりません。私たちはこの本願に遇わない間は、いつも自力の行信であります。
 親鸞聖人は、他力の信心を顕わす場合、いつも自然法爾という言葉を使っていられます。このいづれも然らしむるで、必然的なる内的欲求、即ち願力を顕わすものであります。信行の問題はこの点にあります。
 法は機が開くのですが、これを機みずからが法を開いたと思うときは邪定聚であり、開かねばならぬというときは不定聚であり、それを開かしめられると感ずるとき正定聚であります。
 つまり、開かずにいられないようにせしめられたのであります。聖人はこれを自然と言うておられます。然という字を「しかる」と読まずに「しからしむ」といつも読んでいられます。つまり深い内面的の欲求、つまり本願力に気づかしめられてしからざるを得ざらしめたことをあらわしているので、ここに他力ということが言われるのであります。本願力に然らせしめられるのであります。

(p.47~p.48)



現代に慣れない言葉が並んでおりますが、要は阿弥陀仏から私への一方的なはたらきかけ、お救いであるということです。私はそのおはたらきを受け入れて、お救いにあずかるのみです。
この世のことで何かを成そうと思ったら、能動的アクションが大切です。自分で道を切り開いていくという積極姿勢が大事です。しかし、報土往生に関してはその能動的アクション、積極姿勢は自力と撥ねつけられてしまいます。ここは受動的がよいのです。というか受動的しかありません。私が出離の縁ある聖人ならまだしも、煩悩にまみれた落ちこぼれの凡夫なのですから、本願力におかませするより仕方ありません。阿弥陀仏としても、このような落ちこぼれである私を目当てに本願を建て、永劫の修行を経て成就して下さったのです。それを「光に向かって進ませて頂きます」なんかとやっていたら阿弥陀仏の御心に反するじゃないですか。「仰せの通りお助け下さい」とおまかせしてこそ、仏の願いを許諾してこそ往生一定です。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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