上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。 ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。

世の人は常に、「念仏は劣っている者の行ずる法であるから功徳が劣っている、諸教は勝れた人の修める教えであるから勝れている」と思っていますが、その考え方は正しくありません。念仏の教えは罪が深く劣悪な者を救済する法でありますから、特に最上の法であると知らされるのです。

【7】しかるにひとつねにおもへらく、つたなきものの行ずる法なれば念仏の功徳は劣るべし、たふときひとの修する教なれば諸教は勝るべしとおもへり。その義しからず。下根のもののすくはるべき法なるがゆゑに、ことに最上の法とはしらるるなり。ゆゑいかんとなれば、薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。されば『選択集』(一二五八)のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。
 そもそも、弥陀如来の利益のことにすぐれたまへることは、煩悩具足の凡夫の界外の報土に生るるがゆゑなり。善導和尚の釈(法事讃・下 五五二)にいはく、「一切仏土皆厳浄 凡夫乱想恐難生 如来別指西方国 従是超過十万億」といへり。こころは、「一切の仏土はみないつくしくきよけれども、凡夫の乱想おそらくは生れがたし。如来別して西方国をさしたまふ。これより十万億を 超え過ぎたり」となり。ことに阿閦・宝生の浄土もたへにしてすぐれたり。密厳・華蔵の宝刹もきよくしてめでたけれども、乱想の凡夫はかげをもささず、具縛のわれらはのぞみをたてり。しかるに阿弥陀如来の本願は、十悪も五逆も みな摂して、きらはるるものもなく、すてらるるものもなし。安養の浄土は謗法も闡提もおなじく生れて、もるるひともなく、のこるひともなし。諸仏の浄土にきらはれたる五障の女人は、かたじけなく聞名往生の益にあづかり、無間の炎にまつはるべき五逆の罪人は、すでに滅罪得生の証をあらはす。されば超世の悲願ともなづけ、不共の利生とも号す。かかる殊勝の法なるがゆゑに、これを行ずれば諸仏・菩薩の擁護にあづかり、これを修すれば諸天・善神の加護をかうぶる。ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。(持名鈔)


ここでは薬の喩えをもって念仏が最上の法であることが説明されています。軽い病ならば軽い薬、重い病なら重い薬というように、病に応じて薬を与えるのが良医であります。仏さまというのは良医のような御方で、機をよくご覧になって法をお与えになります。では、どのようにお与えになるかというと、

上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

と書かれています。上根の機、すなわち能力の勝れた善人、聖人には諸行を授け、下根の機、すなわち能力の劣った悪人には念仏を勧められているというのです。戒律を守って修行することができ、智慧すぐれた人というのは、例えば病の軽い人のようなもので、このような人は諸行の力でも助けることができます。智慧もなく悪業の深い末世の凡夫は、例えば重病人のようなもので、このような人は念仏以外には救われる手立てがありません。このようなことですから、罪悪の衆生が救われる法と聞けば、法の力の勝れていることが特に知らされるのです。ですから法然聖人は、

「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」

と仰いました。このように、機の程度に応じて法を説き、病の程度に応じて薬を与えるのを対機説法、応病与薬といいます。末代の私達は戒律をまともに保つこともできず、智慧もない、罪悪にまみれて自力では出離不可能な凡夫でありますから、

ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。

と仰せられているように念仏一行を修め、本願力におまかせして往生を遂げるよりありません。

ところが、対機説法、応病与薬という言葉は知っていても意味が分かっていない親鸞会では、私達は逆謗の屍だとしながらも19願や定散二善を根拠に諸行もどきを説き与えております。私達が逆謗の屍であるなら、なおさら念仏より他に救われる手だてがありません。また、19願や定散二善を勧めるなら、我々は決して逆謗ではなく、上根の機だということになります。
こうした矛盾の理由は、献金や勧誘を「善」という形で勧めなければ組織運営に支障をきたすからに他ありません。この名利と常に相応している団体からは、本当の親鸞聖人の教えを聞くこともできなければ、三界を超越した真実報土への往生もかないません。親鸞聖人は聖道の修行を投げ捨てて浄土の教えに帰依なされました。会員さんも名利と相応した新興宗教とは早く縁を切って念仏往生の教えに帰依して頂きたいと思います。



【参照】
対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード