処々の解釈においては、来迎を釈すといふとも、十八の願の益と釈せられずは、その義相違あるべからず。

『浄土真要鈔』第十段では、第九段を受けて善導大師が第十八願を引いて解釈されている所々の解釈というのはどういうものですかという質問に答えられています。


【10】問うていはく、第十八の願を引き釈せらるる処々の解釈といふは、いづれぞや。
 答へていはく、まづ『観経義』の「玄義分」に二処あり。いはゆる序題門・二乗門の釈これなり。まづ序題門の釈には(三〇一)、「言弘願者 如大経説 一切善悪 凡夫得生者 莫不皆乗 阿弥陀仏 大願業力 為増上縁也」といへり。こころは、「弘願といふは『大経』に説くがごとし。一切善悪の凡夫、生るることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふことなし」となり。これ十八の願のこころなり。つぎに二乗門の釈には(三二六)、「若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」といへり。また『往生礼讃』(七一一)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といひ、『観念法門』(六三〇)には、「若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚」といへり。これらの文、そのことばすこしき加減ありといへども、そのこころおほきにおなじ。文のこころは、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至らん、わが願力に乗じて、もし生れずは、正覚を取らじ」となり。あるいは「称我名号」といひ、あるいは「乗我願力」といへる、これらのことばは本経(大経)になけれども、義としてあるべきがゆゑに、和尚(善導)この句をくはへられたり。しかれば、来迎の益も、もしまことに念仏の益にしてこの願のなかにあるべきならば、もつともこれらの引文のなかにこれをのせらるべし。しかるにその文なきがゆゑに、来迎は念仏の益にあらずとしらるるなり。処々の解釈においては、来迎を釈すといふとも、十八の願の益と釈せられずは、その義相違あるべからず。



『観経義』「玄義分」から序題門と二乗門の釈、『往生礼讃』から後述の釈、『観念法門』から摂生縁の釈と計4つの文を引かれています。そして、もし来迎の益が第十八願の中にあるならばこれらの引文の中に来迎の意味を記しておられるはずですが、そのようなお言葉はありませんので、来迎は第十八願の益ではないことが知られますと仰っています。


また『観経』(意)のなかの上輩の三人、命終の時に臨みて、みな「阿弥陀仏および化仏と与にこの人を来迎す」とのたまへり。しかるに報身、化を兼ねてともに来りて手を授く。ゆゑに名づけて「与」となす。この文をもつて証す。ゆゑに知りぬ、これ報なり。しかるに報・応の二身は眼目の異名なり。(『観経疏』玄義分 二乗門

答へていはく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念以下もまたかくのごとし。『十往生経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生せんと願ずれば、かの仏すなはち二十五の菩薩を遣はして、行者を擁護せしめたまふ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切時、一切処に、悪鬼・悪神をしてその便を得しめず」と。
また『観経』(意)にのたまふがごとし。「もし阿弥陀仏を称・礼・念して、かの国に往生せんと願ずれば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念せしめたまふ」と。また前の二十五菩薩等と百重千重行者を囲繞して、行住坐臥、一切の時処を問はず、もしは昼、もしは夜、つねに行者を離れたまはず。いますでにこの勝益まします、憑むべし。(『往生礼讃』後述

またこの『経』(大経)の下巻(意)の初めにのたまはく、「仏説きたまはく、〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、 みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ。その人、命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接して、ことごとく往生を得しむ〉」と。これまたこれ摂生増上縁なり。(『観念法門』摂生縁



確かに、以上挙げたような御文を見てみますと、来迎は念仏の益であるかのように思えます。ただ、存覚上人が仰せのように、第十八願を引かれての解釈の所には来迎の意味は見られません。

一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。(『観経疏』玄義分 二乗門

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(『往生礼讃』前序

「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(『往生礼讃』後述

また摂生増上縁といふは、すなはち『無量寿経』(上・意)の四十八願のなかに説きたまふがごとし。「仏のたまはく、〈もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」(第十八願)と。これすなは ちこれ往生を願ずる行人、命終らんと欲する時、願力摂して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく。(『観念法門』摂生縁



このあたりの話は中々難しく、私もざっと目を通した程度で解説をせよと言われてもできかねますが、まぁ親鸞聖人が

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。(御消息)

と仰って存覚上人もそれを承けて言われていることなので、私もその通りと受け取ります。誰か解説きぼんぬ(笑)

とにかく、諸行往生・臨終来迎は第十九願の益ですから、第十八願によって平生に往生を得ようという人は速やかに十九願から離れて、直ちに十八願を聞くことが肝要です。特に修諸功徳などと言っていて約束の一つも守れない、正体を隠した勧誘を続ける、職員に追いかけられてトイレに逃げ込む、幹部・講師部は不倫疑惑を起こし万引きをする、といった体たらくの親鸞会からはすぐに離れることです。単に十九願を根拠として利用しているだけで、会長からして善をする気が感じられませんから。
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摂取不捨って観経のことばですっけ
聖人がどのようにとらえていたか不明ですけど
これって諸仏護念とか常来迎と同視できるもんなんすかね

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>名無し様

摂取不捨は『観経』真身観に説かれています。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E3%80%80%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E7.9C.9F.E8.BA.AB.E8.A6.B3.28.E5.BF.B5.E4.BB.8F.E8.A1.86.E7.94.9F.E6.91.82.E5.8F.96.E4.B8.8D.E6.8D.A8.29

念仏の衆生は光明に摂め取られ、その現生の利益として親鸞聖人は第四に諸仏護念を挙げ、また臨終の来迎をたのむことはない(常来迎)と教えられています。「同視」という言葉が引っ掛かりますが、念仏による利益が諸仏護念や常来迎だととらえたらよいのではと思います。
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平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
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ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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