真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑなり。

『浄土真要鈔』第13段では『大経』のお言葉を引いて、仏智を疑う者は胎生(化土往生)し、仏智を信ずる者は化生(報土往生)することが説かれています。どのようなお言葉であるかは、今回は当ブログでは取り上げません。知りたい方は挙げたリンク先に飛んでみて下さい。今日ははやく難行をすてて易行に帰すべしにて既に紹介していますが、第14段を見ていきます。

【14】問うていはく、なにによりてかいまいふところの胎生をもつてすなはち辺地とこころうべきや。

 答へていはく、「胎生」といひ「辺地」といへる、そのことばことなれども別にあらず。『略論』(略論安楽浄土義)のなかに、いま引くところの『大経』の文を出して、これを結するに「謂之辺地亦曰胎生」といへり。「かくのごとく宮殿のなかに処するをもつて、これを辺地ともいひ、または胎生ともなづく」となり。またおなじき釈のなかに「辺言其難胎言其闇」といへり。こころは、「辺はその難をいひ、胎はその闇をいふ」となり。これすなはち報土のうちにあらずして、そのかたはらなる義をもつては辺地といふ。これその難をあらはすことばなり。また仏をみたてまつらず法をきかざる義については胎生といふ。これそのくらきことをいへる名なりといふなり。されば辺地に生るるものは、五百歳のあひだ、仏をもみたてまつらず、法をもきかず、諸仏にも歴事供養せず。報土に生るるものは、一念須臾のあひだにもろもろの功徳をそなへて如来の相好をみたてまつり、甚深の法門をきき、一切の諸仏に歴事供養して、こころのごとく自在を得るなり。諸行と念仏と、その因おなじからざれば、胎生と化生と勝劣はるかにことなるべし。しかればすなはち、その行因をいへば、諸行は難行なり、念仏は易行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし。その益を論ずれば、来迎は方便なり、得生は真実なり。もつとも方便にとどまらずして真実をもとむべし。いかにいはんや来迎は不定の益なり、「仮令不与大衆囲繞」(大経・上)と説くがゆゑに。得生は決定の益なり、「若不生者不取正覚」(同・上)といふがゆゑに。その果処をいへば、胎生は化土の往生なり、化生は報土の往生なり。もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べきものなり。されば真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑなり。


「どうして、今言われている胎生のことを辺地というのでしょうか?」という問いに対し、まず「胎生、辺地と言葉は違っても別のことではありません」と回答されています。それから経釈の文を挙げて、仏智を疑う者が往生するのは報土ではなくそのかたわらであるから辺地といい、そういう者が往生しても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができないので(喩えて)胎生というのだと教えられています。このような胎生、辺地の往生に対し、報土に生まれる者は往生すると同時に諸々の功徳を身にそなえて如来のおすがたを見たてまつり、深いみ教えを聞き、一切の諸仏を供養して、自在に衆生を救済することができるというのです。

さて、化生(報土往生)の者は功徳が勝り、胎生(化土往生)の者は功徳が劣っているのですが、どうしてこのような違いが出てくるのでしょうか。まず、往生の因が違います。ここでは化土往生の因は諸行、報土往生の因は念仏であると教えられています。そして諸行は難行であり、念仏は易行であるから、早く難行である諸行は捨てて、易行である念仏に帰依しなさいというのです。また、それぞれの行因の利益を論じれば、来迎は方便であり、得生は真実であるから、方便にとどまらずに真実を求めなさいとお勧めになっています。来迎は、第十九願に「仮令不与大衆囲繞」とあるように得られるかどうか不確かな利益であり、得生は第十八願に「若不生者不取正覚」とあるように得ることが確かに定まっている利益であるからです。それから、諸行と念仏それぞれの行因による果処、つまり往生する場所は、因が諸行ならば胎生、化土往生であり、因が念仏ならば化生、報土往生です。このことから、化土の往生を願わずに、直に報土の往生を得なさいと教えられています。最後に、「真実報土の往生を遂げようと思えば、ひとえに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行(諸行諸善)をさしおいて、念仏一行を二心なく一心に称えなさい。第十八願には諸行をまじえず、ひとえに如来回向の念仏によって往生するというただ一つの道を説かれているからです。」と仰せです。

18願に誓われているのは念仏往生であり、念仏は至って易くしかも最も勝れた妙なる行として選び取られています。念仏による得生は真実の利益、得ることが確かに定まっている利益であり、念仏の行者が往生するのは報土であります。
対して19願に誓われているのは諸行往生であり、諸行は難行であり劣行であるとして18願では選び捨てられています。諸行による来迎は方便の利益、得られるかどうか不確かな利益であり、諸行の者が往生するのは化土であります。
このように18願と19願を対比して説かれ、19願による諸行往生を捨てて18願による念仏往生を遂げなさいとお勧めになっているのです。
なお、当たり前なのですがこの「方便にとどまらずして」とは、方便を通って、方便の諸善を修めて、という意味ではなく、その前の「難行をすてて」の「すてて」、その後の「化土の往生を期せずして」の「期せずして」と同じく方便を捨てて、方便の諸善を捨てて、という意味です。19願の実践の先に18願の救いがあるのではありません。19願の実践の先にあるのは、臨終来迎があったとしても化土往生です。18願による報土往生を願うなら、19願は捨て去らねばなりません。

19願文まで挙げて、諸善は難行であり、来迎は方便であってしかも不確かな利益であり、往生しても化土であり、報土の者とは功徳が劣っていると存覚上人は仰っています。その諸善、方便、化土往生は、「はやく難行をすてて」「もつとも方便にとどまらずして」「もつぱら化土の往生を期せずして」と厳しく教えられています。その19願の自力諸善を、18願の救いに遇うためにやりなさいと勧められるはずがありますか? 存覚上人は、親鸞会流「三願転入の教え」を完璧に粉砕しておられます。このように善知識方の勧めと真逆な教えを説く親鸞会は、とても「浄土真宗」「親鸞」などの文言を団体名にすべきではないし、また語るべきではありません。
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>秘密コメント様

>「お差し支えなし、ご注文なし」

その通りですよ。「必ず助ける」と仰せの本願をそのまま聞くのみです。記事の内容によっては難しいものもあるかも知れませんが、それは読み飛ばして、例えば『浄土真宗 信心』のカテゴリを読まれるなどしたらよいかと思います。


そうかも知れませんね。その内新入生を誘うために仰ったようなことをするかも分かりません。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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