私が「仏をたのむ」というのは、たのんだのではなく、本願力によって、たのましめられたのであります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  五 聞名の生活

  

 機は一念一刹那であります。私の胸を通して私を超えて、私の中にはいり来るのであります。
 私の中にあらわれるものを機と言い、私を超えたものを法と申します。
 天上の月はそのまま私の心の中の月であります。それを月はただ天上にありと見たらば、それは天上にあるのではありません。
 またこれと反対に、月は唯私の心の中に在りとすれば、これまた私の心にはありません。
 本当に月を見ることは、月において自分を見出すことであり、これはまた同時に自分において月を見出すことであります。
 本当に法をみとめることは、自分を超えて見出さしめられたのであります。これを本願力というのであります。
 私が「仏をたのむ」というのは、たのんだのではなく、本願力によって、たのましめられたのであります。「帰命とは本願招喚の勅命なり」で、帰命は本願に私が招きよびさまされた事実であります。

(p.50~p.51)



・しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。(信文類)
・一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。(浄土真要鈔)
・信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。(御文章1帖目15通)


真宗の信心は、如来回向の信心です。私が作り上げたり、私の方から掴みにかかったりするのではありません。また、私の方から救いに向かって進むのではありません。
助かりたい、救われたい、何とか救いに近づきたい、このようなことを私が思う遥か以前に助けるぞ、救うぞ、まかせてくれよと発願し、本願力を成就し、喚びかけて、逃げる私を追って救いの網に捕らえて極楽に引き導こうと動きづくめなのが阿弥陀仏です。この弥陀の絶大な本願力によってたのましめられたのが、「弥陀をたのむ」ということであります。
救いを向こうに眺めているのではなく、眼前に差しのべられているお救いをお聞かせ頂くのです。聞くままが信心、聞くままが後生を弥陀にまかせたのです。この本願力のはたらき、すなわち南無阿弥陀仏、すなわち「助けるぞよ」を聞いて下さい。
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ありがたいお言葉ありがとうございます。なかなか、お心がわかりませんが、聴聞しています。

>名無し様

コメントありがとうございます。
月を仰いで月の光に照らされているのだなぁと感じるように、本願を仰いで光明の中に摂取されているのだなぁと知らされます。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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