ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいいんじゃないの?

親鸞会は依然として『飛雲』との法論には応じないようです。元々高森会長を始め「親鸞学徒」の皆さんは仏弟子でも何でもないので、約束の一つもまともに守らないのは当然かも知れません。それでいて散善(世福、戒福、行福)を勧めているのですから、親鸞会教義は漫才以外のなにものでもありません(笑)

その代わり、親鸞会の者ということでは責任が負えないからか、親鸞会擁護の偽装退会者という立場で、過去に飛雲さんに破られて逃走した内容を未だに書き続けている者がいます。彼の論法としては、飛雲氏は祖師の御教えを否定したという証言ですね。

********************
この十六観の法を説きたまふは、ただ『常没の衆生』のためにして、大小
の聖のためにせずといふことを証明す。(観経疏)

しかるに『常没の凡愚』、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(化土巻)

「定散二善をすすめられた『常没の凡夫』は定善も散善もできない悪人である。」

というのが祖師聖人の結論です。だから

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと
  勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよと
  なり、知るべし。(化土巻)

は、定散諸機イコール極重悪人となるんですよ。

「一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。」(観経疏)

一切衆生には定機と散機しかない。信前に十八願の機などない。

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等と書いているように、

・一切衆生(全人類)は定、散の二機しかない
・定散二善は聖者ではなく常没の衆生(一切衆生=全人類=定散諸機)に対して説かれたもの
・常没の凡愚(一切衆生=全人類=定散諸機)は定散二善を修めることができない者
・「定散諸機=極重悪人」であって一切衆生必堕無間


であるというものです。祖師の解釈にも合わない、都合のよい根拠を並べているだけのお粗末極まりない理論です。


まず、最初の「・一切衆生(全人類)は定、散の二機しかない」ということについて、『愚禿鈔』を挙げて聖人の解釈を見てみましょう。

【31】 また二種の機について、また二種の性あり。
二機とは、 一には善機、二には悪機なり。二性とは、一には善性、二には悪性なり。
【32】 また善機について二種あり。また傍正あり。
一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義 三八一)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]

(中略)

【35】 また悪機について七種あり。
一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。(愚禿鈔)


このことから、『観経疏』序分義の散善顕行縁の文

四に「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。

「一切衆生の機」とは、悪機とは別の善機の意であると分かります。悪機とは別の善機に対して定善、散善を説き与えられているのです。悪機には定散二善は説かれていません。当然です。『観経』を読めば、上三品、中三品の善人に散善を説かれていますが、下三品の悪人には善は説かれず、念仏しか勧められていないのは誰でもわかることです。これはちょうど、19願の「十方衆生」が『平等覚経』では諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)ということで、作菩薩道者に修諸功徳の善を説き与えられているのと同じです(『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善))。十方衆生、一切衆生とあるからと言って、必ずしも私達と関係があるとは限らないのです。『飛雲』「十方衆生」の意味によれば、

「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

ということです。まぁ戒福すらまともに行じることのできない者達が聖道門の行などできるわけもありませんが。この当たり前のことが断章取義の親鸞会やその擁護者には分からないのです。100年経っても分からないかも知れません。高森会長の犠牲者はまともな思考が停止しています。

この最初の理論が間違っていますから、後はみな間違いです。善機と悪機があるとは親鸞聖人のお言葉ですが、それを無視して善機も悪機も一緒くたに悪機にして理論展開しているところに、彼の如き愚かさがあります。

「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。(『観経疏』序分義 要弘二門

・一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば(行文類)
・定散と逆悪とを矜哀して(同)

(19)
一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。
 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。(口伝鈔)


善機と悪機、善人と悪人、善凡夫と悪凡夫、このように分けられているお言葉は挙げればきりがありません。親鸞聖人はじめ祖師方のお言葉を無視して、何が「正しい真宗教義の伝承のために」でしょうか? ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいいんじゃないの?


さて、次の「・定散二善は聖者ではなく常没の衆生(一切衆生=全人類=定散諸機)に対して説かれたもの」についてですが、これについては「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは?「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長などを参照して下さい。

如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。(玄義分)

当時の中国では、『観無量寿経』の九品の中で上品の三生と中品の三生は、大乗、小乗の聖人等のために説かれた、という解釈でした。そのため、その誤りを正されてこのように仰ったということです。ただ、常没の衆生と言っても、定散二善を説かれたのは悪機、悪人、悪凡夫ではなく、善機、善人、善凡夫です。先ほど説明した通りです。『観無量寿経』『観経疏』をまともに読まず、言葉尻だけ取ってつなげているだけですから、実に薄っぺらくそして脆い理論だと分かりますね。


それから、「・常没の凡愚(一切衆生=全人類=定散諸機)は定散二善を修めることができない者」についてですが、これは雑毒の善ができる下品下生???かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからずなどを読まれたらよいと思います。誰も定散二善を行じることができないのではありません。「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われているようですし、智覚禅師が、上品上生の善人であったことは法然、親鸞両聖人が言われていることです。
「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」に書かれていますが、「かたし」とは「難しい」ということで「不可能」「可能性0」ということではありません。親鸞会のおつとめで読んでいる『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし


の「かたし」を「不可能」「可能性0」と理解している会員はいないでしょう。なのに、「化身土文類」の

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。

の文章だけは「不可能」「可能性0」と言っているのは愚かなことです。


最後の、「・「定散諸機=極重悪人」であって一切衆生必堕無間」については、当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」などが参考になると思います。「定散諸機」とは定善・散善のできる善人のことです。それと「極重の悪人」は違うのです。そして「定散諸機」は必堕無間の悪人などではありません。この程度のことさえ判らなくなってしまうところに、高森会長の被害者の愚かさ、そして悲しさがあります。
そして、善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

19願、定散二善は、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、実践しても化土往生しかできない、と要門釈で解説され、浄土門に入った「定散の諸機」も18願他力念仏に帰せよ、と結論付けられたのです。それで『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の最後で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、「定散の諸機」には他の方便があります。その「定散の諸機」に対しても、結論は「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。「よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と、その理由を付け加えておられます。「定散の諸機」と言っても、龍樹菩薩や天親菩薩と比べたならば、能力はたかが知れているではありませんか。龍樹菩薩や天親菩薩という大変に優れた方でさえも、18願の念仏に帰依されたのです。
そのことを『正像末和讃』で

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰ったのです。従って、善人にも結局は念仏を勧められているのだということです。


と書かれている通りです。


ちなみに、偽装退会者は「一切衆生悉有仏性」=「一切衆生必堕無間」などと下らないことを書いていますが、これについては「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違いを参照して下さい。あんな恥ずかしいことを書いていてよく「正しい真宗教義の…」などと言えるものです。


なお以下は、5月12日に「根拠捏造」さんがコメントした質問に対して、偽装退会者が一切触れずに論点ずらしにかかったために再度「根拠捏造」さんがコメントした内容です。
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No title
さて、以下の質問には答えられないということで決着しました。


1.聖道門での善を実践されて初地まで至られた龍樹菩薩は、善のできない極重の悪人ということですか?

2.定善が容易くできると仰った善導大師は、本当は定善のできない極重の悪人ということですか?

3.智覚禅師は上品上生の方、つまり散善の機と仰った法然上人・親鸞聖人は、嘘を仰ったということですか?

4.定散の機は、凡夫であることを明らかにされたのが善導大師ですが、善凡夫は常没ではない、迷いの衆生ではない、ということですか?

5.親鸞聖人が、すべての人は闡提、逆悪の機、極重の悪人と仰った【直接的な】お言葉を出してください。(化土巻はそんな意味にはなりません)

6.真仏土巻にある闡提の貴方の解釈が示されていませんので、現代語訳をして示してください。



答えられないとは、あなたの主張が間違っていたことを認めたことで、終了です。
アンチにはただの一度も勝てなかったあなたが、以前と同じことを書いて勝てるとでも思った愚かさを学習しましょう。
2012-05-16(20:03) : 根拠捏造 URL : 編集

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都合の悪い質問には一切答えず、論点をすり替えて勝っているように偽装する。親鸞会のお家芸ですね。「アンチSはコテハン全敗」だなどと、大本営発表もいいところです。篤い高森信者は約束を守らないわ、平気でウソをつくわ、人間としてどうかというところまで成り下がってしまっています。せいぜいおかしなことを書いて会員を失望させて下さい。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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