妄想は自分の頭の中だけに留めてもらいたいものです。

相変わらず高森会長の犠牲者は、「誰も定散二善ができないのではない」と言うと「自分にも善ができる、自性仏性があると思っている」だなどと訳の分からないことを論じています。親鸞会批判者の誰か、「私は定散二善ができる者だ」と言いましたでしょうか? カルト教義に汚染されていると、相手の主張をねじ曲げてしか見られないようです。こういうのを濁悪邪見というのですが、その標本のような人物が偽装退会者であると分かります。

「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長にあるように、智覚禅師が上品上生の善人であるとは法然・親鸞両聖人が仰っていることです。善知識方の御著書の中には、親鸞会や偽装退会者の理論を反証する御文がいくらでも載っています。「浄土真宗」「親鸞」の名を団体名から外した方がいい、ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいい、と言っているのはそのためです。
さて、しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(化身土文類)の御言葉について、対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」では分かりやすく以下のように書かれています。

********************
定善について善導大師は『定善義』の中で

万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

と教えられています。簡単に言えば、定善をできる人もあるが、現実的には殆どの人はできないということです。誰も定善ができないなどとは仰っていません。
親鸞聖人はこれを承けられまして『教行信証』化土巻に

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。

と教えられました。善導大師が定善のところで仰った「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」を親鸞聖人は散善にまで適用されているのですが、日本語の判らない人には、「かたし」が”可能性0”としか読めないのです。「かたき」は文字通り難しいのであって、”可能性0”ではありません。

親鸞会の好きな『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

を善知識にあうこと、教えること、よく聞くこと、信じることの”可能性が0”とは流石に理解していないと思いますが。

実際に善導大師は条件付きで定善について「この定かならずすなはち得やすし」と仰っているのですから、散善ならなおさらできる凡夫もあるのです。しかしながら、定善も散善も”難しい”ので、定善・散善に心をかけることなく、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」だぞ、と歴代の善知識方は教えておられるのです。

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これを書いた飛雲さんや他の親鸞会批判者を「私は定散二善ができる者だ」と言っているように理解する輩は、一体どのような教育を受けてきたのでしょうか? そこをまず疑わないといけません。妄想は自分の頭の中だけに留めてもらいたいものです。
また、「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師が、自身は常没の衆生であると嘆かれているのは「散善義」三心決釈の以下の御言葉によっても分かります。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)
わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏をもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

解説はかるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからずから引用します。

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御自身は聖道門での修行に励んでも、出離することができず、流転をしてきた「常没の衆生」であることを善導大師は告白なされているのです。

では誰も出離できなかったのかと言えば、「他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。」と数えきれない多くの法友が出離していったと仰っています。その一方で、「しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。」なのです。これは「菩薩の道を行じ」た上での話をなされているのですから、善を実践なされたのです。善ができなかったのではありません。足りなかったということです。
それで聖道門を断念されて浄土門に入られた訳で、善導大師は御自身の体験から、定散二善を「欣慕浄土の善根」と深信なされたのです。
このように「菩薩の道を行じ」られた善凡夫もあるのですが、「仏法・世俗の二種の善根有ること無し」の悪凡夫もまたいる訳です。
「菩薩の道を行じ」られた善導大師が悪凡夫かどうかは、通常の思考があれば、容易に判断できることです。

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ではひるがえって、末代悪世の衆生である私達のことを見てみます。ここで、他の人のことは分かりませんので私自身のことについて考えてみますと、聖道門の修行はおろか、定散二善の中の世福すらまともに行じることができません。善凡夫か悪凡夫かと問われたら、間違いなく悪凡夫です。余の一切の行は出来難く、自力での出離は望むべくもありません。
そのような私のために説かれたのが念仏往生の法門です。対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」には、以下のように書かれています。

********************
存覚上人の書かれた『持名鈔』には、

薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

と教えられています。病に応じて薬を与えるのが良医です。良医と同じように、仏は機に応じて法を説かれたのです。上根の機、つまり善人には諸行を授け、下根の機、つまり悪人には念仏を勧められているのです。悪業の深い末世の凡夫は、念仏以外には救われる手立てがないのです。それを法然上人が『選択本願念仏集』の中で「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。」と教えて下されているのです。

上根の機と下根の機と説かれている法が違う、それが対機説法であり、応病与薬というのです。それが『勅伝』の

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

ということです。

またいつも紹介していますように、これは『往生要集』の

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と同じことです。

********************

対機説法・応病与薬の意味すら分からない高森会長は、全ての人は極重悪人だと言いながらその極重悪人に対し定散二善などの諸行を勧めています。その高森会長を擁護する偽装退会者も同類です。それに論点すり替え、断章取義は朝飯前ですから、文章の一部だけ切り取って邪義を唱えたり非難をしたりできるのでしょう。高森会長こそキリスト教のことを「美しいことを教えている」「他の雑多な宗教よりもよろしい」なんて書いてますが。こういうのを断章取義と言うのですよ、お分かりですか? 分かったなら二度とこのような姑息なマネはしないことです。といっても国語の能力から疑ってしまう者達ですから、この文章を読んで理解することができるかどうか甚だ疑問ですが・・・。このように邪義と断章、詭弁で塗り固め、善知識方の勧めと異なる教えを聞いている会員が救われないのは当たり前のことです。

・上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。
・善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。


と仰せのように、私達はひとえに念仏によって往生を願うのです。正確に言うと、念仏によって往生させるという仏の願いを聞き受けて往生を願わしめられるのです。
高森会長及び偽装退会者は、下根の機に諸行を授け、善人をすゝめ給へる所をば我分と見て得分にせよと教えているようなもので、授けるもの、勧めるものが間違っています。「親鸞会」ではなく「高森会」、「正しい」ではなく「間違った」に名義変更しないと、不妄語戒(散善の中、戒福の一つ)を保てませんよ。あぁ、そういえば彼らの教義によると、「雑行をしていない者に雑行を捨てよと教えられるはずがない」ですから「戒律を破っていない者に戒律を守れと教えられるはずがない」ということで、一旦戒律を破ってからでないといけないんでしたっけ? これは失礼しました(戒福も、まず破戒してからでしたよね参照)。
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まとめtyaiました【妄想は自分の頭の中だけに留めてもらいたいものです。】

相変わらず高森会長の犠牲者は、「誰も定散二善ができないのではない」と言うと「自分にも善ができる、自性仏性があると思っている」だなどと訳の分からないことを論じています。親...

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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