親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『唯信鈔』に、三願転入の教えはない(2)

唯信鈔の第六段では、念仏往生の教えについて、専修と雑修の二行があることを教えられています。

【6】つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。専修といふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめてまつたく余行をまじへざるなり。他の経・呪をもたもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなへ、ひとへに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。雑修といふは、念仏をむねとすといへども、また余の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。

この二つのなかには、専修をすぐれたりとす。そのゆゑは、すでにひとへに極楽をねがふ、かの土の教主(阿弥陀仏)を念ぜんほか、なにのゆゑか他事をまじへん。電光朝露のいのち、芭蕉泡沫の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんとす。あにゆるく諸行をかねんや。諸仏・菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期すべし、大小経典の義理は、百法明門のゆふべをまつべし。一土をねがひ一仏を念ずるほかは、その用あるべからずといふなり。念仏の門に入りながら、なほ余行をかねたる人は、そのこころをたづぬるに、おのおの本業を執じてすてがたくおもふなり。

あるいは一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土をねがはんとおもふこころをあらためず、念仏にならべてこれをつとむるに、なにのとがかあらんとおもふなり。ただちに本願に順ぜる易行の念仏をつとめずして、なほ本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなきなり。これによりて善導和尚ののたまはく(礼讃)、「専を捨てて雑におもむくものは、千のなかに一人も生れず、もし専修のものは、百に百ながら生れ、千に千ながら生る」(意)といへり。
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生  故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)
といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執ずるこころなり。たとへば、みやづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。



専修とは、極楽を願う心、本願をたのむ信を起こして、往生行としてただ念仏一行をつとめてまったく余行(定散二善、六度万行など念仏以外の一切の行)を交えないことです。他の経典や呪文をたよりにせず、他の仏・菩薩を念じることなく、ただ阿弥陀仏の名号を称え、ひとえに阿弥陀仏一仏を念じる、これを専修と名付けるというのです。
それに対して雑修というのは、念仏を第一とするといっても、また余の行も並べ、他の善も兼ねていることを言います。他力の信心を獲るために19願の実践や定散二善を勧めたり、「宿善が厚くなるから」「しなければ信仰は進みません」と言って六度万行などの念仏以外の善を勧めたりする親鸞会は決して専修ではなく、一応は雑修の部類に入ります。ただ、親鸞会で勧める善はとても善と言える代物とは言えないですし、念仏を第一としているとも言えないので、実際は雑修の部類にさえも入らないただの新興宗教であります。

この専修と雑修の二つの内、どちらがすぐれているかと言えば、専修であると聖覚法印はお答えです。そのわけはというと、「すでにひとえに極楽を願い、かの浄土の教主(阿弥陀仏)を念じるほかに、何の理由で他事をまじえるというのでしょうか。稲光や朝露のような命、芭蕉の葉の泡露のような我が身であるのに、わずかにこの世での仏道修行によって、たちまちに五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天人)を離れようというのです。どうしてゆったりと他の諸々の行を兼ねるというのでしょうか」と教えられています。
いつ尽きるとも知れない命だから「善をせよ」「宿善を求めよ」「(横の線を指して)早くこの道を進め」ではありません。「余行を交えずひとえに念仏一行をつとめて往生を願え」です。親鸞聖人の教えは、延々横の道を進んで弥陀の救いに辿り着くというような教えではありません。親鸞会では無常、無常と教えられますが、法話はいつまでも「続きはまた今度」、言うことはいつまでも「光に向かって進ませて頂きます」。話はいつ完結し、会員はいつ光に辿り着くつもりでしょうか?
今日とも明日とも知れない命だと言いながら、横の道を進まねば救いに辿り着けないという矛盾。辿り着けずに、つまり信心決定できずに命終われば無間地獄だと説くのに、あの横の道は何十年と求めている人でも縦の線には辿り着きません。もしすぐに辿り着くのなら、毎日聞ける環境にある学生などは真剣に聞き求めれば新歓合宿前に救われていてもよさそうなものです。また講師部員、特専部員、親友部員、その他幹部会員は、それなりの活動をしてきた人達ですから、全員救われていてもいいはずです。しかし、会全体でも救われている人は皆無同然と言っていいほど見当たりません。会員はずぅっと聴聞、ずぅっと活動の日々です。それはいつまでか? そう、死ぬまでです。そうやって活動している間に信心も安心も分からないまま命終わってしまうのです。「死ぬまで求道」とはこのようなことを言うのでしょう。

一向専念無量寿仏と言いながら、諸行(もどき)を交えて念仏一行をつとめない親鸞会。教義上からしても親鸞聖人とは真逆なことを勧めて、浄土真宗も親鸞もないでしょう。会員の皆さん、親鸞会は仏具の販売も始め、事業仏教化も着々と進んでいることですし、ここらで本当の親鸞聖人の教えは親鸞会では聞けないと正見しませんか?(つづく)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード