お前が助からねば私はさとりは開かないとのうえでのお助けである。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  七 および声ばかりなり

  

 逃げておる私をお助け下さる法である。
 そのよび声が聞えたのが、お助けにあづかったのである。お助けに助けられたのである。
 信ずるも称えることも出来ない私のする信心ではない。仕上った法の力で助けられるのである。そこに耳の傾け方がある。
 どういう風にして助けて下さるのか。
 仏のおさとりを聞かして頂く。仏の行を仕上げて下されたその正覚の全体をあげて私を救って下さる。虚妄の私とは、うそつきということではない。真如にそむく私である。この私を如来はご自分のものにされた。お前が助からねば私はさとりは開かないとのうえでのお助けである。如来は、修徳顕現として仕上った法で、私にかかりはてて下さる。正、像、末の三時に衰変なしである。
 仕上った法で助けられるのである。
 もしそれが仏体なら、諦観せねばならぬ。
 もしそれが行修なら、まねの念仏なら称えられるが、如実の念仏なら一度も出来ない。
 そこで出来た法を勅命としてあらわして下さるのである。声となって救いを実現しようとされるのである。
 お助け下さることが聞えたときに、助けられてゆくお助けの信が仕上るのでない。つまり必ず助けるとのお助けが聞えたときに、決定の信が出来たのではない。
 左文字が右文字に映って下されたおかげで信が出来たというのではない。
 これならば、名号そのものは、涅槃の真因とは言えない。信心正因とは言えない。信となるべきものが、即ち可信成就が、名号ならば、名号が直々の正因とは言えない。
 可信成就とは、信となるべく仕上った名号というのである。しかしこれではない。名号直爾の大行が当流である。
 『執持鈔』第五節には、本願名号正定業として説明されてある。
 信心しよう、称えよう、安心しようはいらない。出来ないものがどうして助かるか。それを聞かせてもらうのである。信も行もお手元に仕上っている。
 信ずることも、行ずることもいらない。信ずる信も、行ずる行も仕上っている。その仕上った六字に助けられるのである。
 価値の上からも、私の手のかけられるものではない。仏は、私のなさねばならぬ行を仕上げたものではない。
 私を浄土へつれていって下さるだけの尊いはたらきのあるものが名号法である。機無、円成、廻施とのおいわれである。その円成された、この法で助けられてゆくのである。
 信心の体は仏心である。
 覚如上人の『最要鈔』には「この信心をば、まことのこころとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるるなり」とある。
 信心の体は仏心である。
 仏心が名号となり、勅命とあらわれて下さる。信心の体は私の心ではなく、名号である。つまり勅命である。その仰せが私の上にあらわれて下さる。摂取不捨、立撮即行の仏が、いつでも、どこでも、私の救いにかかりはてて下さる。
 如来は、私のところへ来て叫んでいて下さる。


(p.62~p.66)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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