後生どのような処へ生まれるのかは現在の自分には分からない。想像を絶する大きな喜びの心が起きたのが他力信心ではない。

地獄ゆきを知って、これを救うて下さるのが名号であれば、疑いである

を書いていてふと思ったことがあります。


親鸞会では二種深信のお示しを誤って、「弥陀に救われると地獄行きの私と極楽行きの私が知らされる。地獄行きの私が知らされないのは真実信心ではない」などと教えられ、多くの会員は”地獄行きの私”を知らされようと努めています。私もその口でしたが、ここで問題があります。地獄行き、極楽行きというからには、地獄や極楽がどのような処か分からなければ”地獄行きの私”、”極楽行きの私”ということは言えないはずです。しかし信を獲たとて、地獄も極楽も見えるわけではないので、後生どのような処へ生まれるのかは現在の自分には分かりません。
以前、本願を信じ念仏していると言った私に対し「極楽行きとハッキリしましたか?」と聞いてきた人がありましたが、私は「分かりません。阿弥陀様に聞いて下さい」とお答えしました。聞く人によっては随分と突き放した答えに思うかも知れませんが、分からないものは分かりません。私は後生どのような処に生まれるかも含めてひとえに阿弥陀仏におまかせしているだけです。
二種深信とは、自力では到底生死を出離できるような者ではないことと、ひとえに本願力によって往生するということに疑いないことです。信を獲たその時に往生また定まるのですが、往生が定まるとは、極楽行き間違いなしと私の上でハッキリすることとは違います。信を獲たその時に往生が定まるとは、例えて言えば、海外に初めて行く人が日本からロサンゼルス行きの航空チケットを手にしたその時に「ロサンゼルス行きが定まる」ようなものです。まだロサンゼルスがどのような処か私の上でハッキリしていなくとも、チケットを手にしたその時に、指定された飛行機に乗ってロサンゼルスに行くことが定まるのです。まぁ喩えなので合わないところもありますが、とにかく死後どのような処へ生まれるのか、私の上ではハッキリいたしません。私はただ、阿弥陀様のお連れ下さる処へ参るだけです。かたじけなくも、阿弥陀仏は本願を信じ念仏を称える者を浄土へ生まれさせると仰せですから、本願を信じたその時に往生が定まるのです。

【参照】
『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(後生の一大事について)


また、広大難思の慶心を「広かったぞ、大きかったぞ、想像を絶する大きな喜びの心が起きたぞ」などと聞かされ、「信心獲得すると想像もできない大きな喜びの心が起こる、大きな喜びの心が起きないのは他力の信心ではない」というように思っている方もあるかと思います。どのように想像しても自由ですが、信心とは疑蓋無雑、仏願の生起・本末を聞いて疑いないことです。喜びが起きたかどうかを信を獲たか否かの物差し(の一つ)にしては、信心正因ではなく歓喜正因となります。広大難思の慶心を私の上のよろこびと捉えるところに誤りがあります。広大難思の慶心とは他力の信心の別名で、如来から与えられる信心の徳を讃嘆してそう呼ばれているということです。他力の信心はその徳から様々な呼び名がありますが、例えば『教行証文類』では

宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。 金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。(信文類)
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。この深信は固く信じる心、すなわち堅固深信である。この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。 この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。この真心は生涯もたれる心、すなわち相続心である。この相続心は純朴で飾り気のない心、すなわち淳心である。この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。 この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。この金剛心は仏になろうと願う心、すなわち願作仏心である。この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。 この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。阿弥陀仏の本願が平等であるから、阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。 この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。

とあります。専心、深心、深信、堅固深信、決定心、無上上心、真心、相続心、淳心、憶念、真実一心、大慶喜心、真実信心、金剛心、願作仏心、度衆生心、大菩提心、大慈悲心、これらは皆他力信心の別名です。
ただし、このように讃えられる素晴らしい信心を獲たからと言って、私が何か特別変化するということではありません。心は常に想像を絶する喜びで満たされるようになるとか、つらいことや苦しいことが起きても煩悩即菩提で即時に喜びに転じ変わるようになるとか、自分を含め全ての人が逆謗の屍であるとハッキリ知らされるとか、経典やお聖教の意味がさっぱり分からなかったのが信後はすらすら分かるようになるとか・・・。信後はこのように(これらの他にも)大きな変化が起きるだろうとか、そう期待して現在の活動を我慢して続けている方々もあるでしょうが、こうした考えは間違いです。おそらく間違った親鸞聖人の教えを伝える、善知識を装った悪知識を盲信し、すっかりその気になってしまっているだけです。
これに関し、『WikiArc』疑情に興味深い言葉がありましたので引用します。

********************
なお、不審と疑心は違う概念であり、これを混同すると盲信に陥る。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り、かつ味わいたいということであって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。
これを混同すると善知識という人師の言葉を盲目的に受け入れ、人惑を受けることになる。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって右往左往するのである。あまつさえ組織や善知識に対する不審を問うことすらも、疑情とされてしまうのである。

********************

組織や善知識に対する不審を問うことを、あるいは和合僧を破る大罪だとか、謗法罪だとかやかましく言われるかも知れません。そうやって信者を脅し、信者は不審を問うことさえ許されず、いつか訪れるであろう喜びの日を夢見て、他力信心とはおよそ無関係な活動に従事させられ、搾られるだけ搾り取られてゆくのです。

繰り返し申し上げますが、他力の信心とは、本願の名号を聞いて疑いないことです。「必ず助ける」の力強い仰せを疑いなく聞き受けたのです。南無阿弥陀仏、この他何もないと言っても言い過ぎではありません。今まで聞いてきた間違った教えを物差しとして、色々と先入観を持って聞かれる方もあるでしょうが、聞いて覚えてきたことはリセットした方がいいかも知れません。
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No title

極楽行きとハッキリはしなくとも、阿弥陀様が連れて行くとおっしゃるのだから、きっと極楽に行けるんだろうなあと思っています。いつ死んでも阿弥陀様のお膝元とはなあと喜んでいる姿は、極楽がどんなところかこの目で見たわけではないけれども、経典の教えのごとく真受けにすれば、極楽行きのハッキリした姿と受け止めることもできるように思うのですが。

No title

信心頂いた人の中にも、信の一念の自覚が強い人と弱い人があるのは周知のようです。
救われたことがハッキリしているかどうかは、救いにとってはあまり大事なことではないにしても、救われてもハッキリしている人とハッキリしていない人があること自体は事実として認めておかないと、無益な論争が繰り返されるのでしょうね。

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パソコンが故障していたため返信が遅れました。


秘密コメント様

「私の白道」は、私が親鸞会を離れるきっかけを与えてくれたブログです。また、高森会長の著作剽窃問題や、息子の不倫疑惑事件、会長の元出身団体である浄土真宗華光会についてなど、親鸞会に不都合な情報が多く載っているエッセイです。
既に親鸞会の邪義から離れた方には必要ないかもしれません。しかし、親鸞会に疑問を持った方には、本当の親鸞会を知ってもらうきっかけの一つにはなると思い、リンクに加えています。ご理解頂ければと思います。


月夜様

受け止め方は人それぞれですので、ここでは私の思いを書きます。
自分の姿はあくまでも煩悩にまみれ、自力では生死を出離できない悪衆生であります。極楽往きのハッキリした姿とは残念ながら受け止められません。本願を信じ念仏している今も、後生は本当に極楽なのかどうかはわかりません。ただ、後生がどのようなところなのかも含め、それは阿弥陀様にお任せしているというだけです。


無論様

『安心問答』でもハッキリということについての議論がなされていましたね。
信の一念がハッキリ自覚できるかということについてに的を絞りますが、それは仰る通り自覚があるという人とないという人に別れます。「信の一念はハッキリと意識の上で自覚できる」という根拠でもあればいいのですが、私の知る限りそのような根拠はありません。親鸞会会員は高森会長の説を絶対視していますから、救われたらその瞬間(信の一念)はハッキリ自覚できるとカンカンに信じていますが、何を根拠にそんなことを信じているのか、まずそれを聞いてみたいですね。ちなみに会員さんに申し上げておくと、『こんなことが知りたい』等で挙げられている根拠は到底根拠とは呼べませんが・・・。

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>秘密コメント様

ご理解いただきありがとうございます。

ところで、これは言葉遣いの問題ですが、名称を「高森会長」より「高森先生」とした方が会員さんにとっては馴染みやすいと思われます。『私の白道』はかなり会員さんを意識して書かれていると感じます。要は何事にも功罪があるということですね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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