諸仏は自分の願を言わずに、弥陀の願をすすめられ、自分がその証拠人となって下さるのであります。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  九 および声を、聞く

  

 我等は、無善造悪の凡夫であります。弥陀の浄土へは、とても参ることもできないようなものであります。こういう凡夫が浄土へ参らしてもらうのです。
 中国の智者大師や、慈恩大師は、このありがたい法門を、お経の中で見て、一人は、凡夫の往かれるような浄土はつまらない浄土であろうと申され、他の一人は、浄土はすぐれているが、凡夫は往かれないのだと申されました。これらの方々は、弥陀の願が、超世の願であることを、知られなかったからであります。

  三

 「我、超世の願を建つ。必らず無上道に至らん。この願満足せずば、誓いて正覚を成らず」とあります。これが、弥陀の第一の誓いであります。
 次に、第二の誓いには、願の内容をお説き下さいました。即ち「われ、無量劫において、大施主となりて、普く諸貧窮をすくわずば、誓いて正覚を成らず」というのです。つまり、仏法についての福徳善根のない貧乏人である我々へ、無量永劫の後まで、大施主となって、南無阿弥陀仏という大善根功徳をお与え下さることをお誓いなされたのであります。これが、廻向であります。これで助けるわけだけは分りましたが、もう一つ分らないのは、南無阿弥陀仏をどのようにして、私が受けとればよいかということであります。
 衆生が仏になるというような、一大事の南無阿弥陀仏を、どのようにして、受けとればよいか。これを、明らかにされたのが、次の第三の誓いであります。

  四

 「我仏道を成ずるに至りて、名声十方に超えて、究竟して聞こゆるところなくば、誓いて正覚を成らず」というのが、そのお言葉であります。
 名号のいわれを説き聞かす声が、名声であります。その名声は、十方に超えすぐれています。名声十方にすぐれておればこそ、十方諸仏は、弥陀の名号を讃嘆して不可思議となし、証誠護念せられるのであります。
 それで、諸仏は自分の願を言わずに、弥陀の願をすすめられ、自分がその証拠人となって下さるのであります。


(p.85~p.88)
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No title

今まで名声=名号と理解していましたが、加茂仰順師のお説の方が、私にはよりしっくりします。有難いことです。

>雑草様

私もそうでしたが、「名号のいわれを説き聞かす声」と言われると確かにしっくりきて分かりやすいですね。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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