聞くというのは、阿弥陀如来と私とが出会うところであります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  九 および声を、聞く

  

 さて、こうしてお与え下された名号を、いかに貰うかと申しますと、それは聞くことであります。聞くということが貰うことであります。聞くというのは、阿弥陀如来と私とが出会うところであります。
 聞くと申しますと、誰か言う者がなければなりませぬ。つまり、よき師があって、言うて下さるのです。蓮如さまは、よき師というは、「弥陀に帰命せよといえる使い」と、仰せられて、弥陀に帰命せよと言う使いが、よき師であると言うておられますが、弥陀、釈迦二尊の使いであるところの、「よき師」によって、説かれた名号のいわれを、疑いなく聞き得るのが、弥陀の大悲の心と、私の心とが出会うところであります。つまり、聞いたいわれを疑わず、お受けするのが、聞くということであります。それならば、聞いたおいわれとは何であるかと申しますと、「南無というこころは、衆生のやうもなく、弥陀をたのむ心であり、阿弥陀仏の四字の心は、たのむ衆生をやうもなく、たすけたまう御心であります。」
 このように、疑いなく受けとれた南無阿弥陀仏が、そのまま、私たちの安心であります。
 南無阿弥陀仏に、私の智恵や、思案のまぜものをするのは、みな自力の迷い心であります。
 それゆえに、「弥陀をいかにたのめばよいか」などと、自分で、すけさせるのではありませんから、「何のやうもなく」と仰せられるのです。「どのようにたのむ」、「いかやうにたのむ」などと、いうことが、いりませんから、「何のやうもなく弥陀をたのむ」と、仰せられるのであります。
 弥陀をたのむというのは、「助ろうか、助るまいか」と、思案することではありません。ただ、「助ることのありがたさよと、弥陀をたのむ」のであります。
 このことは、「願成就文」によりますと、「お順いする」ことであります。「言南無者」によれば、帰命であります。つまり、信心は、弥陀の廻向であるからであります。
 つまり、南無の二字が、やうもなく、たのむことであって、阿弥陀仏の四字が、やうもなく、助けることであります。それですから、たのむ心が、弥陀の手前では、助けることであります。
 弥陀如来は、助けるより外に何の考えもなく、そのために、南無阿弥陀仏をお与え下されたのであります。それを、貰いうけたのですから、何の不安もある筈はないのです。ただうれしく、ありがたく、聞いて、お順いする外に何もないのであります。


(p.88~p.90)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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