第十八願の「我国に生れんと思へ」ということは、凡夫から弥陀の浄土へ生れたいと願うことではなく、弥陀の教勅であるのです

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  九 および声を、聞く

  一一

 他力の安心は、『大経』においては、至心、信楽、欲生、です。『観経』においては、至誠心、深心、廻向発願心、です。『阿弥陀経』においては、一心であります。この三経の安心のうち、大経を以て、真実とせられると仰せられるのですから、『観経』や、『阿弥陀経』の安心は、方便の安心であるということになります。
 そして、さらに、『大経』の中には、第十八願を以て本とすと仰せられますから、十九や、二十の願は皆、末であるということになります。
 そしてさらに、十八の願にとっては、また、願成就を以て至極とすと仰せられてありますが、「十八願」は、弥陀のお説き下されたこと、「願成就文」は、釈尊のお説き下されたことでありますから、弥陀より釈尊の方が至極であると言われるので、弥陀より釈尊の方が勝れてあるように思われます。
 なにゆえに、第十八願が至極でないのか。それは覚如さまのお勝手にそのように言われたのかと申しますと、そうではなくして、覚如さまは、ご開山様のお手本に従って、そのように申されたのです。そのお手本というのは、『文類聚鈔』のことであります。しかしいまは、その『文類聚鈔』のことは、申しあげることは、略しておきます。
 ただここで申させてもらいますことは、『文類聚鈔』には、「いまこの心、つまり、欲生は、これ、如来の大悲、諸有の衆生を招喚したまふの教勅なり。即ち、大悲の欲生心を以て、これを廻向と名づく。」とある。誰が名づけたのか。それは釈尊が、願成就文に、「至心廻向」と名づけられた。このことが分りますと、他力廻向ということが分ってまいります。つまり、欲生とは、如来の招喚の教勅であります。喚び声であるのであります。
 即ち、南無阿弥陀仏のいわれを説き聞かせるのが、弥陀の喚び声であり、それが廻向であるのであります。つまり、第十八願の「欲生」は、教勅であり、廻向であります。御開山様は、『教行信証』の中に、「欲生心成就文」と申されておいて、「至心に廻向したまへり。彼の国に生まれんと願ずれば即ち往生を得て、不退転に住す」の文を御引用になってあるのであります。『文類聚鈔』においてもまた同様であります。それゆえに、第十八願の「我国に生れんと思へ」ということは、凡夫から弥陀の浄土へ生れたいと願うことではなく、弥陀の教勅であるのです。喚び声であり、廻向であります。


(p.98~p.100)


それ浄土の一門について、光明寺の和尚(善導)の御釈(礼讃)をうかがふに、安心・起行・作業の三つありとみえたり。そのうち起行・作業の篇をば、なほ方便の方とさしおいて、往生浄土の正因は安心をもつて定得すべきよしを釈成せらるる条、顕然なり。しかるにわが大師聖人(親鸞)、このゆゑを もつて他力の安心をさきとしまします。それについて三経の安心あり。そのなかに『大経』をもつて真実とせらる。『大経』のなかには第十八の願をもつて本とす。十八の願にとりては、また願成就をもつて至極とす。「信心歓喜乃至一念」(大経・下)をもつて他力の安心とおぼしめさるるゆゑなり。(改邪鈔)

この御文の一部分は見覚えのある方も多いと思います。ですが、それは何を言わんとされているのかを理解している人はどれだけあるでしょうか。その前を読めば分かりますが、この御文は、往生浄土の正因は起行や作業ではなく安心、つまり信心であって、その信心、安心とは本願成就文に説かれている他力廻向の信心であると明らかにされているのです。
本願成就文には第十九願の修諸功徳も、第二十願の植諸徳本もありません。第十七願成就の名号、南無阿弥陀仏を聞いて信心歓喜乃至一念、至心に廻向せしめられたその時に往生が定まるのだと書かれています。これが浄土真宗の至極でありますから、往生のためには本願の名号を聞く以外ないということです。
第十九願を実践せよ、宿善を求めよ等、余計な事は一切書かれていません。そんなことは必要ないということです。ただ、諸仏が称讃せられる弥陀の廻向の御名を聞くばかりです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

ご法話を聴聞させていただいておりますが、いつもお話しを聞いているだけで終わってしまうような気がします。私にかけてくださっている願いが聞けません。どうすればはないのだけれど、いつも最後はそこに戻ってくる思いです。

>船橋様

お返事遅れましてすみません。

自業自得で永遠に生死から離れられない私を憐れみ、自分と同じ仏にして助けんとされている阿弥陀仏の願い、そしてその活動を聞かせて頂く、その聞かせて頂くままが信心です。ご法話を聞く前後で私の中に何か変化というか、救われる確信のようなものを求めたり、「どうすれば」はないけれど「どうすれば」と思ってしまったりするならば、やはりまだ往生ほどの一大事を自分の側で何とかしようという自力心がしぶとく健在しているのでしょう。こうしたぐるぐる同じところを回り続けるような思いは、18願の救いを求める者ならば程度の差こそあれ誰しもあると思います。
ここで方法論に囚われてしまうようなら、またしても18願の救いを見失ってしまうでしょう。阿弥陀仏の「助けるぞ」との願いを、私の手垢をつけずに「助けるぞ」とそのまま頂く。それだけです。大丈夫、船橋さんは大いなる弥陀の願いの中に包まれています。それに気付かせて頂くだけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード