聞くというても沢山に聞くことではありません。法のいわれ、つまり、およびごえに、自分の心のまぜものをしないで、そのままお順いしたのであります。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  九 および声を、聞く

  一九

 真宗で、意業が悪いというのではありません。つまり、安心と、意業とは別のものであるというまでであります。意業は、起ったり、止んだりするものであります。安心は憶念であって、自分の心に覚えがなくとも心の中には、立派に受けとられてあるのであります。わが心でありながら、自分の心の中に、そのような信があるか、どうかは知ることができません。ただ如来様のみがこれを知られるのであります。しかし、そのようなことはわからなくともよいのです。お浄土へ参るかどうかは、南無阿弥陀仏が貰われたか、どうかということによるのです。
 南無阿弥陀仏を貰うといいましても、こちらから、一生懸命になって、貰いにゆくのではありません。阿弥陀さまは、常に与えどうしであります。その与えどうしの名号のいわれを、つまり、および声を、よき師の口から、自分の耳へ入れてもらい、その仰せに、順うた時が、名号を貰うた時で、あります。まことに名号は聞くところに、貰われるのであります。
 聞くというても沢山に聞くことではありません。法のいわれ、つまり、およびごえに、自分の心のまぜものをしないで、そのままお順いしたのであります。

  二〇

 法のいわれと申しましても、南無阿弥陀仏の外にはありません。即ち、南無の二字の心は、衆生のやうもなく弥陀をたのむ心であります。阿弥陀仏の四字の心は、たのむ衆生をやうもなく助けたもう心であります。つまり、機法一体の南無阿弥陀仏であります。


(p.108~p.110)


無常や罪悪というものに多少なりとも怖れを感じ、阿弥陀仏のお救いにあずかりたいと思う人なら、法話を聴聞するのも真剣でしょうし、力が入るというものでしょう。勿論、聴聞は居眠り半分であったり、他事を考えて話が頭に入らなかったり、というようではよくないと思います。ただ、自分の真剣さや、聞くということに力を入れて阿弥陀仏のお心を見失うようでは、こちらもやはりいけません。
大事なことは、「お前を助けるぞ」「お前のために南無阿弥陀仏を成就したから、早く貰うてくれ」という阿弥陀仏のお心を聞き、そのお心通りになることです。自分の心のまぜものをしないで、そのままお順いするということです。それが信心獲得するということ、第十八願を心得るということ、そして南無阿弥陀仏のすがたを心得るということです。
「自分は(救われるには)まだまだだ」「もっと真剣に聞かないと(救われない)」「もっと沢山聴聞しないと(救われない)」などと考えるのは、自分の心のまぜものをしているのです。それは、間違った知識に従事しているためにそうとしか考えられなくなっているのかも知れません。南無阿弥陀仏は、今、ここにいる、この私一人に与えられています。私としては、その名号を「左様にございますか、それは何とかたじけない、ありがとうございます」と、自分の心のまぜものをしないで、ただお受けするばかりです。ただこれだけであります。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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