こちらの質問には答えず、一方的に質問をぶつけてくるという相変わらずの親鸞会会員

それで、「一切衆生必堕無間」の根拠は?

の記事に「ヒロシ」さんから重ねてコメントがありました。

********************
弥陀の救い


では、なぜ、弥陀の救いが、あるのですか?

一切衆生が、必堕無間じゃないなら、何故、弥陀の救いがあるのですか?

蓮如上人が、「あわれあわれ存命のうちに皆々信心決定あれかしと
朝夕おもいはんべり。」(御文章)

と、蓮如上人は、「信心決定してくれよ」と、朝夕思っていたんですか?

信心決定しないと、どうなるんですか?

何故、後生の一大事が、あるんですか?

何故、我々は、弥陀の救いに、会わないといけないんですか?

何故、阿弥陀仏が、「皆助ける」と仰ってるんですか?

阿弥陀仏から、助けてもらわなかったら、どうなるんですか?

********************

相変わらずこちらの質問には答えず、一方的に質問をぶつけてくるという親鸞会会員らしいコメントです。高森信者とはまともな議論をすることは非常に困難ですね。
さて、このコメントにも「一切衆生必堕無間」の根拠はありませんでした。ということで、

「一切衆生必堕無間」の根拠はない

ということで決着です。これ以上当ブログに何か書き込むというなら、まず「一切衆生必堕無間」の根拠を示してからにして頂きたいと思います。



ところで、色々と質問が来ておりますので、私は根拠を挙げて答えましょうか。これは「信文類」の御言葉が分かりやすいと思います。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。 しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。 また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。 なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。  ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。  すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。  この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

ということで、なぜ弥陀の救いがあるのかについては、一言でいえば

阿弥陀仏が苦しみ悩む衆生を哀れんで助けようとして下されたから。

であります。私たち衆生がはかり知れない昔から煩悩から離れることなく迷いの世界に流転し、多くの苦しみに縛られて清らかなまことの信楽がありません。がために、阿弥陀仏はこれを哀れんで、五劫思惟の願を発し、兆載永劫の行を修めて、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる我ら衆生に広く施し与えて下さるのです。

しかし、せっかく私たちが浄土往生する手はずを阿弥陀仏が整えて下さっていても、これを受け取らねばまたしても流転を重ねなければなりません。信心を決定せねば、今度の報土の往生は不定です。

信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。(五帖目十一通)

なので蓮如上人は、「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」と仰ったのでしょう。ちなみにここでは信心決定しなければ無間地獄に堕ちるとは仰っていませんね。

「後生の一大事」=「未信の者は死ねば必ず無間地獄に堕ちるという一大事」ではありません。本来参れるはずもない我ら衆生が浄土に往生するという一大事、迷いの世界に流転するか浄土に往生できるかどうかという一大事を後生の一大事というのです。これについては

『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事

が分かりやすいと思います。単に無間地獄を逃れたいなら、親鸞会に入って苦しい思いをせずに神を拝めばよいのです。

一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。(『教学聖典(6)』)

別に弥陀の救い(第18願による救い)に遇わなければならないという強制はありません。やれると思う人は聖道門自力修行の道で生死出離を目指しますし、第19願に誓われている自力諸行往生の道を、あるいは第20願に誓われている自力念仏往生の道を辿る方もあるでしょう。(まぁ、いずれの道にも行かず、無仏無仏法な生活をして命終わるという人が圧倒的に多いでしょうが・・・)
ただ、末代の我々に聖道門の修行をしてさとりを開くことはできませんし、第19願や第20願は直ちに救うという弥陀の本意ではありません。念仏して第18願による往生を願うことが弥陀の本意であると親鸞聖人が明らかにして下されたので、同心するものはそれに順うというまでです。

なぜ「皆助ける」と仰っているのかについては、阿弥陀様がそう仰っているからです。これ以上のことは阿弥陀様に聞いて下さい。

阿弥陀仏から助けて頂かなかったら、後生はまた迷いの世界を流転です。中でも三悪道に堕ちる者は多いでしょうし、無間地獄に堕ちる者もあるでしょう。しかし全ての衆生が死ねば必ず無間地獄に堕ちるわけではありません。お釈迦様は勿論、七祖、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、どなたも仰っていません。



これで質問には答えたと思います。では、ヒロシさんに重ねて言いますが、「一切衆生必堕無間」の根拠を経典やお聖教の御文で挙げて下さい。それ以外のコメントはお断りです。
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No title

>一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。(『教学聖典(6)』)

これは面白い
一生頑張ってもダメでした、って会員は死の間際にこぞって神頼みに走りそうですね。
「必ず無間地獄に堕す」と「必ず三悪道に堕す」、三悪道がいいわけじゃないにせよ、
「無間地獄よりはまだマシ」でしょうし。

前々から疑問だったんですよ。
親鸞会の会員は「明日をも知れぬ命を生きている」のに「信心獲得せずに死んだら無間地獄」という教え。
それこそ「急作急修して頭燃を灸ふがごとく」救いを求めて行かなければならないはずなのに、
信心獲得もしてない会員が「光に向かって進ませて頂きます」なんて悠長なことを言ってる。
「なんでかな?無間地獄の一大事なんて信じてないのかな?」とか思ってましたが、
こんなところに無間地獄の回避方法があったからなんですね。納得がいきました。

〉名無し様

これは「飛雲」を参考にさせて頂きました。

彼らは親鸞会でいう「五雑行」を叩き込まれていますから、神頼みに走ることはないでしょう。それより観音菩薩の臨終説法とやらに望みをつなぐかも知れません。

なぜ悠長なのかと言えば、会長がいつも言っているように「後生が問題になっていない」からでしょう。親鸞会以外に知らないし、もはや惰性で続けている会員が多いと思います。

ヒロシではありません

こんにちは、淀川コナンです。
最近は「ひろし」の名前を使っています。
淀川コナンの名前は少々ふざけキャラなので、盗作問題などは淀川コナン、教義などは「ひろし」を使っています。

先日、私の正体を知っている人が、私を「ヒロシ」さんと勘違いしていました。
「内容や文体を見たら、別人と分かるでしょう」と言いました。
「ひろし」と言えばS会ではM野さん、私が個人的に知っている人でY本さん、F田さん、とおられます。
私の「ひろし」は、この3人とは無関係ですが。

布教使によって「私は心で五逆罪や謗法罪を造っている」「私は地獄行きだ」と個人的な味わいをおっしゃる方は沢山おられます。
しかし「だから貴方も五逆罪や謗法罪を造っているから地獄行きだ」とは言いません。

最近、上佑史浩氏の告白本を読みましたが、オウムでも「全ての人は地獄行き」と言っていたそうですね。
この本を読むと、オウムと親鸞会の共通点の多い事に驚かされます。
親鸞会の会員には、是非読んで欲しい本です。

>ひろし=淀川コナン様

あのようなコメント主と間違われるとは災難でしたね。

上祐氏の本とは、

『オウム事件 17年目の告白』
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6-17%E5%B9%B4%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%91%8A%E7%99%BD-%E4%B8%8A%E7%A5%90-%E5%8F%B2%E6%B5%A9/dp/4594067492

のことでしょうか? 私はまだ読んだことがありませんが、新興宗教には信者を縛るための要素が必要で、その一つが地獄なのでしょうね。

全ての人は地獄に堕ちるが、この宗教を信じれば助かる。この宗教に出会った貴方は選ばれた者である。全ての人が救われるたった一つの道であるこの宗教を広め、人を導くことはもっとも尊い行為だ。

なんていうところが大体共通していそうです。

ひろし

淳心房様

上祐氏の本は、淳心房様がおっしゃる本です。
共通点として、

グルの命令には絶対服従
グル以外は人を救えない(さすがに親鸞会で「高森会長が救う」とは言いませんが、「高森会長以外の話では救われない」と思っています)
自分で物事を判断せず、グルや上司に判断を仰ぐ
グルに認めて欲しい(ホーリーネームなど)親鸞会では「全人類の代表とか阿弥陀仏に選ばれたとか

こんなところでしょうか。

>ひろし様

ありがとうございます。

内部にいると「全く違う」「他の雑多な宗教と一緒にしないでもらいたい」などと思うでしょうが、教義内容こそ違えど信者の統率の仕方など共通点が多いですね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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