「お助け」を、頂いたのが、信心でありますから、その上によろこばれるとか、よろこばれぬとかの心配はいりません。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一0 「たすけるぞ」の仰せを、「はい」と、頂いたのです

  

 いつ死ぬるということも知りませず、また、どんな病気で死ぬることも知りません私が、いくら心配しましても、何にもなりません。
 阿弥陀さまは、私が、地獄へ堕ちてはなりませんから、地獄へ堕ちないように南無阿弥陀仏で、「お浄土へ参らしてやろう」との、仰せでありますから、心配することも、考えることもいりません。ただ、阿弥陀さまに、おまかせするばかりであります。

  六

 闇は暗い、燈は明るいというようなもので、私のゆくさきは、本当の暗闇であります。闇に迷うているのでありますが、南無阿弥陀仏のあかるい燈を、その闇の中に持ってまいりますと、すぐさま、私の迷いの闇は消えてしまうのです。なんにも、ためらうことはいりません。ただ、与えて下さる燈をもろうて、迷いの闇を照らせばよいのです。そこが断疑生信と申されて、お浄土へ参ることが、定まるところであります。

  七

 この「お助け」を、頂いたのが、信心でありますから、その上によろこばれるとか、よろこばれぬとかの心配はいりません。ただ、思い出したときに、報謝の称名をさせてもらえばよいのです。よろこばれるのは、お慈悲のはたらきです。よろこばれないのは、煩悩のさわりです。ただ、「参らしてやる」との、仰せを、「はい」と、頂くそのときに、はや、私のお浄土参りは、定まったのであります。喜びのあまりには、いろいろと思いますが、煩悩にさえられて、充分にはできませんことを、無理にせよというのではありません。できるときに、称えればよいのです。しかし、称えられないのは、煩悩のためでありますから、どうでもよいのであると、思うてはなりません。自分で、出来るだけは、よく称えさせて頂き、できないときは、無理にしなくても、よろしくあります。富める者は万灯をともし、貧しい者は、一灯を捧げて、報謝をいたします。出来ないからと云って、捨ててはなりません。常に心にかけて、もし出来ないことがあれば、ああ、このくらいのことさえ出来ない私が、仏にしてもらうとは、ありがたいと、それが、すぐに慚愧となり、また、それが、御恩を思い出すご縁となります。慚愧と、歓喜とが、あざなえる縄のごとく、相続ができます。


(p.119~p.121)


救われた暁には大慶喜し、喜びに満ち溢れた生活を送れると思っている方があると思います。

・信心歓喜(本願成就文)
・ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな・・・聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。(『教行証文類』総序)
・信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば(行文類)
・一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(信文類)
・うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな(『御文章』1帖)


かく言う私も、このような御言葉を根拠に出され、「救われたら身にも溢れる大きな喜びの心が起きる」「信心を獲ればこれまでの苦悩も全て報われる」「苦しみも幸せ喜ぶ元と転じ変わり、大安心大満足の明るく楽しい心で毎日を送れる」などと思っていました。浄土往生という素晴らしい未来の結果よりも、暗く苦しく悲しみの心ばかりの今を明るく楽しく喜びの心で生きたい、そう願っていたのでしょう。そんな自分の都合だけを考え、その勝手な都合を満たしてくれるよう阿弥陀さまに求めていたのですから、一般に御利益を期待して神に祈るような信心と何も変わらなかったのです。
本願を聞くとは、阿弥陀さまの願いを聞くことです。阿弥陀さまの願いとは、永久に苦悩から離れられない私に、はかり知れない名号の功徳を信じさせ、称えさせ、浄土に往生させて自分と同体の仏に成らせる、というものです。この世の50年乃至100年の内の楽しみではなく、永生の楽果を与えてやろうというのが阿弥陀さまの願いです。
この尊い本願を建てて下された阿弥陀仏、また本願を私まで伝えて下された方々のご恩を思えば有難くかたじけなく申し訳なく、遇法の喜びも湧いてまいります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏であります。ところが…これは私だけかも分かりませんが…現実の日暮しの方は残念ながら煩悩にさえられて、とても喜びに満ち溢れた生活とはいきません。欲望、怒り腹立ち、妬み嫉み、人やものを疑う心、自惚れ心など、煩悩は一層激しく燃え盛り、苦しみ悩みは以前と変わらず押し寄せてまいります。念仏称えていても踊躍歓喜の心はおろそかであり、時にはこのような人生はさっさと終わらせて早く楽になりたいという気持ちが起こる始末、ただ楽になりたいだけで浄土へ往きたいという気持ちとは異なります。まことに浅ましい身であります。このように知らされるにつけ、そのような私一人をことに憐れんで、この私を目当てとして助けんと思し召して下された本願がいよいよたのもしく、かたじけなく思えます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
喜べるのは慈悲のはたらき、喜べぬのは煩悩のさわり、とあります。喜べる喜べぬと信不信は異なります。喜べるから信心、喜べぬから不信、というようでは、私の喜びという感情を基準に本願を捉えているのです。それでは信心正因ではなく、歓喜正因とでも言うべきものでしょう。大事なことは、本願を聞いて疑いないことです。後生どのような処へ生まれるかまで含めて、ひとすじに阿弥陀さまにおまかせすることです。これが自力を捨てて他力に帰した信心発得の行者であります。そしてその上の称名は御恩報謝と思って、できるだけつとめさせて頂くことです。法然聖人のように一日七万遍とはいきませんが、ご恩を思い出した時に報謝の称名をさせて頂くのです。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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