ひとたび自分の死を知り、罪悪を自覚し、わが身のねうちが知られてみたら、そのときはどうでしょうか。今さら明るうなってみたい、美しい胸になってみたいと、そのような気楽なことが言っていられましょうか。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用


  御親のただ『一声』

  

 私は実際に信が得られたならばどのような気持になるものでしょうか。これまでは、このように思うていました。信が得られたならば、この胸の中が明るくなるであろう。暗い部屋に電灯がともったように、光明がかがやきわたって、明るくなるであろうと。そのときこそは、このきたない心が美しい立派なものになり、おどりあがるほどのうれしい心がわきあがるであろう。どんなにかありがたいことであろう。はやく信を得たい。そのような身になってみたい。それにはどうすればよいであろうかと思っていました。しかし本当に信を求めてみますと、とてもこのようにはなりません。得られそうにみえて、どうも得られないのが信心です。如来の本願を聞き、如来のお慈悲を聞いてみれば、すぐに得られそうに思えましても、得ようとすれば、にげてしまいます。追ってもなぜかつかまりません。どれほど一生懸命になって聞いてみましても、結び止めのない糸で布を縫うように、あとからどこかへぬけてしまいます。明るうなるべきはずの胸のうちが、聞けば聞くほど、なぜか暗くなってしまいます。ご本願が私を救うて下さるということがどうもはっきりとしません。思うほどなにか心の上に黒雲がかかったような心持がして、如来のみ光はとても拝めません。これまで立派になったつもりでありますのに、私の胸の中はあさましい一ぱいであります。止めようとしても止められない欲の心、抑えても抑えきれない怒りの心、愚痴が次々とおこってきます。どうすることもできません。なんでこのような心でありましょうか。これではとても助けられそうにありません。どうしたらよいでしょうか。これはよろこぶどころではありません。悲しいことです。なげかわしいことです。これが信が得られないという心持です。

  二

 なぜ明るくなれないのでしょうか。うれしく喜べない。如来の本願は、いつも「助ける」と呼んで下されています。「我をたのめ、必ず助けるぞ」と呼んで下されてあります。これでなぜに頂けないのか。まうけにひきうけることができないのはなぜでしょうか。なぜに、うれしくておどりあがるほどによろこべないのでしょうか。光明を求めながら、かえって暗黒におちいり、安らぎを願いながらも、かえって苦しみに沈むというのは、まことにあわれな身の上であります。
 まこと、私はまちがいであった。方角ちがいであった。私が、明るうなってみたいとは何のことですか。安心した心になりたい。うれしく喜びたい。明るい日暮しがしたいと思っていますが、それは何のことであるのか。勝手なことです。このような気ままとは、このようなぜいたくなのぞみとは、なさけないことです。まじめにわが身を考えてみますれば、なかなか容易なことではありません。おそろしいあぶない身の姿でありました。無常迅速であります。今にも死なねばなりません。出る息は入るを待ちません。いつ終るか分りません。死ぬかも知れないのでない、きっと死ぬのです。現に今自分が死ぬと思いますと、これまで何一つ善い事をしたことがありません。人様を助け救うたこともありません。胸に残っているものは、悪いことをした覚えばかり、自分の知らない罪悪だけでも、数えきれないほど多いのに、無始以来生々世々、つくりかさねた煩悩悪業、身ぶるいする程、おそろしい身の上です。それがこのままいまここで死ぬと思えば行路は真暗闇です。何かしら深い底なしの暗い穴の中へも落ちこむような心持になってしまいます。ひとたび自分の死を知り、罪悪を自覚し、わが身のねうちが知られてみたら、そのときはどうでしょうか。今さら明るうなってみたい、美しい胸になってみたいと、そのような気楽なことが言っていられましょうか。うれしい生活がしたいと、そんな勝手な希望が起りましょうか。あさましいことです。本当に申しわけのないことです。求めても求めても信の得られない筈でした。聞いても聞いてもお慈悲が喜べないはずでありました。


(p.168~p.171)


『浄土真宗 信心』には名号のお助け(法)の内容が圧倒的に多いのですが、この章ではこうした我が身(機)の内容が取り沙汰されています。親鸞会出身者ならこのようなことばかり聞かされてきたでしょう。なのでそういう方にとっては、法の話より、こういった機の話の方が聞きやすい、胸に入りやすいかもしれません。
まぁ何も浄土真宗に限ったことではありませんが、我が身の値打ちというものを知るということは大事なことです。明るく楽しい人生を送りたいとは何と身勝手なことかと、あさましい身の上を知らされるにつけ思います。阿弥陀さまは浄土に連れて行ってやると仰せですが、自分はそれよりも現に今苦しんでいるこの状況を何とかしてほしい、救うてほしいと思っています。じゃあその状況を作っているのは誰かと言えば、それは他ならぬ自分自身であります。所詮この私というものは、自分で苦悩を作っておきながらそれに気が付かず、つらい苦しいと喚いて、この現状の苦悩からの離脱を求めて本願の救いを求めているという愚か者です。阿弥陀さまの尊い願いを聞くのではなく、自分の勝手な都合を阿弥陀さまに何とかしてくれと押し掛けている馬鹿者です。これでは本願が聞けないわけです。ご信心が頂けないわけです。こういったことは、ご法話の中でも機の部分についての話をよく聞かせて頂いて、我が身をよく見つめてみなければ分かりづらいと思います。機の面についてのお話は、やはり重要です。
ただ、これだけではいけないのです。これだけでは暗いまま、落ちこむままで何の救いもありません。親鸞会では機の話が繰り返し徹底された後、法の話がなされないまま別の方向(獲信のための献金、勧誘、善知識への無条件服従の勧めなど)へ進んでしまうため、それに気付かず親鸞会教義を真受けにしてしまっている間は救いはありません。お預け状態です。目の前の人参状態です。なので、まこと浄土真宗の救いに遇いたい会員の皆さんは、法の話がなされる所へ行って聞いて頂きたいと思います。または本でも音声でも勿論いいです。要はちゃんと法に触れられるようになることです。本願寺は『死んだら極楽、死んだら仏、念仏さえ称えていたら死んだらお助け』と吹き込まれているでしょうが、私はそんな話を聞いたことはありません。尊い法のお話をされる布教使は沢山いらっしゃいます。法の内容が詳しく書かれている書物も多くあります。
初めのうちは今まで染みついてきたものが邪魔をして、本願寺の方の話を素直に聞けないという方があるかも知れません。そういった方は先に親鸞会教義の検証を逐次行って染み抜きをした方がよいでしょう。今や多くのブログで親鸞会教義についてその是非が取り扱われています。当ブログでは、特に初期から中盤にかけて親鸞会教義の検証をしています。
救いもないまま、死を前に何の役にも立たない活動に身を捧げるか、本当の浄土真宗が聞ける道を探すか、選ぶのは貴方自身です。どうか悔いのない選択をされるよう願っています。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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