今更ですが・・・

つい最近になって、梯實圓和上が往生なされたことを知りました。(Just a Little Bit of ...『梯實圓和上が…』等参照)

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

しかしショックです。ついに一度も直接ご法話を聴聞することはなかった・・・。教えを頂いたのは音声やご著書を通じてのみとなってしまいました。私としては何もできませんが、せめて和上のお言葉を通して親鸞聖人の教え、南無阿弥陀仏のこころを紹介することで、ご恩を偲びたいと思います。

 信楽(信心)の語義
 第十八願に「信楽」といわれているのは、インドのサンスクリット(梵語)の「プラサーダ」を中国語に翻訳したもので、信心とも浄信とも訳されています。『無量寿経』の下巻のはじめに、本願が完成したことを私たちに告げる本願成就文では、「信心歓喜」と訳されていますし、異訳の『無量寿如来会』の成就文では「浄信」と訳されています。ですから、信心といっても、信楽といっても、浄信といっても、意味に変わりはありません。もともと信(プラサーダ)とは、濁った心を浄化する働きを持った心のことで、「澄浄(澄み切った清らかな心)ならしめる」を意味する言葉でした。仏陀の説かれた迷いと悟りについての正しい道理を正しく理解し、素直に受け容れて認め、仏・法・僧の三宝を真実と認めることによって成立する心であって、あらゆる善の拠りどころとなる心であるといわれていました。
 ところで、プラサーダを訳した中国語の「信」には、真実という意味がありました。親鸞聖人が「信」の字訓(意味)を挙げて、「信の言は、真なり、実なり、誠なり」といわれたのは、そのゆえでした。「信」という言葉には、「真」という意味があるのです。ですから、至心(真実心)と共通している意味を持っていました。しかし、同じ真実ですが、「信」の場合は、人偏に「言」という字が書いてあるように、とくにその言葉に「うそ・いつわり」がないことを「信」と言い表していました。嘘も偽りもない、裏表のない言葉、これが「信」という言葉にこもっている意味なのです。
 人間の言葉には、嘘と偽りと裏切りがつきものですから、「信」とか「真」という言葉が文字どおりに適用できるのは、我執・煩悩を完全に浄化した如来の言葉だけであるというのが親鸞聖人の領解でした。
 すでにプラサーダにも、仏陀の教えを素直に受け容れるという意味がありましたが、嘘も偽りもない仏陀の言葉を聞いたとき、それを疑うことは、まことに失礼なことです。まことの言葉は、疑いをまじえずに、仰せのとおりに聞き受けるべきですから、信には「疑いをまじえない」という意味が、おのずから具わっています。そこで法然聖人や親鸞聖人は、この「無疑」という意味を、信心の中心的な意味として用いられたのでした。
 もともと仏教では一般に「信」の反対疑念は、心を汚し濁らせ、怠けさせる働きを意味する「不信」であり、「疑」の反対疑念は「不疑」だったのです。疑とは、正しい因果の道理を聞いても、ためらって受容できない心で、「猶予して(ためらって)決定しない心」のことです。その反対の「不疑」は、得失、邪正等を簡拓(明確に選び分け、決定する)する意味を持つ勝慧(勝れた簡拓力)であって、その働きによって猶予不定の疑を断ち切っていくと見られていました。
 こうした一般的な考え方に対して、信心の反対は疑惑であり、信心とは無疑心であるとはっきりといわれたのは法然聖人でした。もっとも善導大師も『往生礼讃』の深心釈に「深心とは真実の信心である」といい、その法の深信の釈のなかに、

  さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(『註釈版聖典』七祖篇、六五四頁)

 といい、信心(深心)の反対を疑心と見られていました。それを承けて、法然聖人は、『往生大要鈔』に「うたがひをのぞくを信とは申すべきなり」(『和語灯録』真聖全四、五八六頁)といい、信心の反対は疑いであるといわれていました。
 とりわけ『選択本願念仏集』三心章には、

  次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。(『註釈版聖典』七祖篇、一一四八頁)

といわれていました。この生死に迷うか、涅槃をさとるかは、本願を信ずるか、疑うかによって決まるといわれた、いわゆる信疑決判は、親鸞聖人の信心論の出発点でした。すなわち親鸞聖人は「行文類」の「正信念仏偈」に、それを承けて、

  生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
  すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。(『註釈版聖典』二〇七頁)


といわれています。
 『尊号真像銘文』には、

  「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(『註釈版聖典』六四三頁)

といわれていましたが、『一念多念証文』にも、

  「信心」は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(『註釈版聖典』六七八頁)

と定義されていました。要するに、信心とは、阿弥陀如来の本願の言葉を疑いをまじえないで聞き受けていることをいうので、それをまた信楽ともいうのです。
 その疑いとは、「自力のはからい」のことであるというのが親鸞聖人の特徴でした。人間の知性は、生死、善悪、賢愚、持戒破戒、老少、男女というように、あらゆる事柄を二元的、対立的に分別して理解していく分別知を特徴としていました。それも自己中心的に、またあらゆる物事を言葉に対応する実体があるように思い込んで分別しますから、それを虚妄分別と呼んでいます。一方、仏陀のさとりの特徴は、生死を超え、善悪を超え、あらゆる対立を超えて、万物を一如と見ていく無分別智(実智)にありました。その無分別智によって確認された万物一如の領域を、人々に知らせて、目覚めさせるために、あえて二元的、対立的な言葉をもちいて、人々に呼びかけられているのが、阿弥陀仏の本願の言葉であり、それを一言で表しているのが南無阿弥陀仏という言葉でした。それは、言葉を超えた領域を知らせる言葉だったのです。そのような言葉を紡ぎ出していく智慧を、無分別後得智とも、権智とも呼んでいます。それはまさに、迷える衆生を喚び覚まそうとして働く大悲の智慧でした。
 そのような大悲の智慧の言葉が告げる世界は、人間の分別的な知性が捉えている対立と差別の世界とはまったく違って、老少、善悪、賢愚を選ばず包み込み、万人を分け隔てなく救っていくという平等無礙の世界でした。そういう救いの世界を告げ知らせて、虚妄分別を超えさせようとする本願の言葉は、本来人間の知性を超えています。それゆえ、私が自己の持つ知性によって量り知ろうとした途端に、私の前から消えてしまいます。自力のはからいが、如来も浄土も救いも、すべてを消し去ってしまうのです。そのような自力のはからいを「本願を疑う心」というのです。それゆえ私たちは、本願を聞くときには、私の考えをまじえずに、ひたすら如来の仰せを仰せのままに聞き受ける以外に如来の救いに遇わせていただく道はないのです。本願の言葉を仰せのとおりに受け容れたとき、その受け容れた本願の言葉が、今まで想像もできなかった、如来を中心とした新しい救いの世界を知らせてくれるのです。

『本願のこころ』(p.80~p.85)



和上のお言葉にあるように、如来の仰せを仰せのままに聞き受ける以外に如来の救いに遇わせていただく道はありません。如来の仰せ、南無阿弥陀仏の仰せ、すなわち「助けるぞ」の仰せを、私の考えやはからいをまじえずに、そのまま聞き受ける。そのまま聞くのが信心、信楽、浄信であり、それ以外に信心というものはありません。

この続きはまた今度書かせて頂きたいと思います。
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本当に残念です。真偽検証様、これからも頑張って下さい。なかなか、み教えにあわせていただきながら本願にたいして疑いやはからいばかりがあります。また、いろいろ教えていただきたく思います。

>読者様

ありがとうございます。

本願に対しての疑いやはからいは、自分で捨てよう、なくそうと思ってなくなるものではないので厄介ですね。これはただ、本願を聞くところに捨たるものですので、とにかくお聴聞が大切です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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