信心は過去の記憶でもなく、未来の予測でもなく、自分が思い固めていく心でもなくて、現に今聞こえてくる本願の名号を聞いているほかにない

まずは、前回の復習から。信心についての解説でしたが、大事な部分を抜き出すと

・浄土真宗の信心とは、無疑心である。阿弥陀如来の本願を疑いをまじえないで聞き受けていること。信楽ともいう。
・信心の反対は疑惑。本願を疑う心。それを「自力のはからい」という。
・本願を聞くときには、私の考えをまじえずに、ひたすら如来の仰せを仰せのままに聞き受ける以外に如来の救いに遇わせていただく道はない。


というような内容でした。

それでは、前回の続きです。


 聞と信
 なお『一念多念証文』には、本願成就文の「その名号を聞きて信心歓喜する」という言葉の「名号を聞く」の意味を解釈して、

  きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『註釈版聖典』六七八頁)

といわれています。この文章には「聞く」ということと「信心」をめぐって、二つの事柄を知らせようとされています。はじめの「きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり」といわれたのは、名号を聞くといっても、疑いながら聞いているような誤った聞き方(不如実の聞)と、疑うをまじえずに、仰せを素直に受け容れているような本当の聞き方(如実の聞)があるが、いまこの本願成就文の「聞」は、疑いをまじえずに聞いていることをいうと説明された文章です。そこで、これは「信を以て聞を釈された文章である」と言い慣わしています。次の「またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」といわれたのは、本願の信心は、阿弥陀如来の本願を聞いていることのほかにはないということを表された文章です。これは聞くという言葉をもって真宗の信心の特色を顕された文ですから、「聞をもって信を顕わす」釈であるといっています。
 はじめの釈文が「信を以て聞を釈する」というのは、第十八願成就文の「名号を聞く」といわれたのは、疑いなく聞いていることだと釈されているからです。「疑う心のないこと」を信というのですから、信であるような聞き方がまことの「聞」であると示されているというのです。同じように「必ず助ける(阿弥陀仏)から、私をたのみにし、私にまかせなさい(南無)」という本願の名号(如来の仰せ)を聞いていても、それを疑いながら聞いているのと、疑いをまじえずに聞いているのとでは、大きな違いがあります。疑いながら聞いている人は、仰せのとおりにおまかせすることができませんから、結果的には聞かないのと同じことになってしまいます。それを「不如実の聞(名号のいわれにかなっていない聞き方)」というのです。第二十願に、

  わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。(『註釈版聖典』一八頁)

と、自力念仏によって救いを求める人のありさまが説かれています。第十八願と同じように名号を聞いているのですが、名号を称えて功徳を積み、その功徳を、まごころこめて回向しなければ救われないのであろうというように聞き誤っているのが、第二十願の行者なのです。それを自力のはからい(疑い心)をまじえて聞いているというのです。
 それに引き替え、自力のはからいをまじえず、疑いなく聞いている人は、仰せのとおりに如来の本願力にまかせてしまいます。それを「如実の聞(名号のいわれにかなった聞き方)」といい、本当に如来の言葉を聞き容れている人というべきです。第十八願成就文に「名号を聞く」といわれているのは、私のはからいをまじえずに、如来の「必ず救う」と仰せられるお言葉を、仰せのとおり疑いなく聞き受けている如実の聞であることを顕わしているといわれるのです。
 親鸞聖人が「信文類」に第十八願成就文の文を釈して、

  しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(『註釈版聖典』二五一頁)

といわれたのも、まったく同じ意味です。
「『大経』に聞といわれたのは、衆生が、阿弥陀仏の本願が、なぜ、誰のために発されたか(生起)、その本願はどのようにして完成していったかという、本願の発されたわけと、願いの通りに救済力が完成していった本願の始終(本末)を聞いて、少しも疑いをまじえずに受け容れていることを、〈名号を聞く〉と説かれているのです」
といわれているのです。
 次の「またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」といわれた釈文は、「聞をもって信を釈する」言葉です。信心は過去の記憶でもなく、未来の予測でもなく、自分が思い固めていく心でもなくて、現に今聞こえてくる本願の名号を聞いているほかにないということを表しています。「必ず助ける(阿弥陀仏)から、まかせなさい(南無)」という本願の言葉を仰せのとおりに聞いて慶んでいるほかに信はないということを知らせようとする釈なのです。本願も南無阿弥陀仏ならば、信心も南無阿弥陀仏なのです。「助ける」という仰せが届いたということと、「たすかる」と聞き受けていることとは同じことだからです。それを先哲は、「勅命の外に領解なし」といわれたのです。こうして「聞をもって信を釈する」ことによって、第十八願の信心が如来よりたまわった信心であることが明らかになります。
 さきに『一念多念証文』には、「信心は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」と定義されているといいましたが、信心が「疑いのない状態」を表しているというのならば、信心とは一体「何がある状態」なのでしょうか。実は信心とは如来の本願の言葉が私に届いている状態をいうのです。それを如来よりたまわった信心とも、本願力回向の信心ともいわれるのです。如来から救いの言葉を賜っていることを、信心を賜っているというのです。このように本願が私の心に響きこんで私を喚び覚まし、私を浄土に向かうものに転換してくださったということは、私の心に本願を中心とした新しい精神の秩序が与えられていることを意味しています。

(『本願のこころ』p.85~p.89)



信心とは、現に今聞こえてくる本願の名号を聞いているほかにないと仰せです。信心獲得とは、例えば求道の末に地獄の釜底に叩き落とされ、そこで阿弥陀仏の直の喚び声を聞いたというような、過去の驚天動地の体験のことではありません。本願の言葉が今現に私に届いていることを、信心獲得というのです。
過去にどんなことがあったかが問題なのではありません。只今本願の仰せを疑いなく受け容れているかどうかが問題です。とにかく、涅槃をさとるか、生死に迷うか、これ一つで決まるという一大事ですから、どうか「必ず助けるから、私をたのみにし、私にまかせなさい」という力強い南無阿弥陀仏の仰せを、そのまま受け容れ念仏して頂きたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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