【3.善人と悪人について】について

今回は、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点10項目の内、第3項目について取り上げます。まずは「知ってるから応えるよ」さんのコメントです。

********************
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

どういう意図で、善人と言ってるか分からないが、
すべての人が悪人でないと、
悪人正機の根本が揺らぐ。
悪人でないなら、阿弥陀如来の本願によらず、
自力修行で悟りを開いてみるよろし。

********************

これに関しては、『浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?』③善人・悪人について を、『飛雲』では、
善人が存在しないとは、外道の主張か幼稚な発想
「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長
無知と勘違いからくる親鸞会の傲慢さ
ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。
善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりの高森会長
心を重視する仏教、心を軽視する高森会長
八戒を実践し阿那含と成った頻婆娑羅王は悪人なのか?
浄土三部経に説かれている最低限の内容くらいは勉強しておきましょう
下品下生の往生さえ知らない高森会長
善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?
等をご覧下さい。『飛雲』では、一部【4.獲信のために善は必要か】の内容が混じっていますが、善人には諸善を、悪人には念仏を勧められているのですから、第3項目と第4項目は一概に切り離すことができない内容です。

もう、私が口を差し挟む余地が残されていないほど書き尽くされています。リンク先を読まれて、それでも高森会長が正しいと思うのは洗脳度の高い会員くらいのものでしょう。
それでも一応、回答の中で「悪人正機」という言葉が使われていますので、自身の勉強を兼ねてその説明をしていきたいと思います。「知ってるから応えるよ」さんは、弥陀の本願は悪人正機、悪人を目当てに救う本願なのだから、全ての人は悪人であるという意図で使っているのだと思いますが、勘違いも甚だしいです。これについては、以下の問答が分かりやすいでしょう。

問い

悪人正機とは、全人類の正しい機様は悪人である、ということでしょう。

答え

違います。悪人正機ということについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということです。


悪人正機とは、悪人正機・善人傍機ということで、阿弥陀仏の本願は悪人の救いを規範として建てられており、善人はかたわらに兼ねるということです。元々阿弥陀仏の本願は、善悪・賢愚の隔てなく一切の衆生を救うというものでした。それをどうして悪人の救いを規範、すなわち第一としているかと言えば、仏の大悲心というのが、苦しみ悩む人に焦点を合わせてはたらく心だからです。世の中には、ある程度自分でさとりを実現できる聖者や善人(善凡夫)もいます。具体的には、自力で初歓喜地まで到達せられた龍樹菩薩、定善の行を成就したとされる中国の善導大師や懐感禅師、法照禅師、また智覚禅師などです。しかし阿弥陀仏は、そういった方々ではなく、この上なく重い悪業を抱えていて、自分の中にはさとりを開く手がかりさえもない煩悩具足の悪人を憐れんで本願を発されました。それは、聖者や善人はある程度は自分で自分をどうにかできる方々で、さしあたってすぐに救わなければ取り返しのつかない状態になるような心配がないからです。それに対して悪人は、煩悩悪業に溺れて今にも溺死しそうな危機的状況にあります。しかもそれを自分の力ではどうすることもできません。阿弥陀仏の慈悲は悪人も善人も聖者も分け隔てはありませんが、特に煩悩悪業の病が重く、苦しみの深い凡夫、すなわち悪人の救いに精魂を傾けていかれるのが大悲者としての阿弥陀仏の救済の特質だったのです。そのことを善導大師は『観経疏』「玄義分」に、

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

と仰せられています。
阿弥陀仏の本願は、さとりを開く手がかりすら持たない煩悩具足の悪人を救って最高のさとりの領域である浄土へ往生させ、仏陀にならせることを規範として法門を完成させられています。したがって、本願を信じて念仏し、浄土に往生し成仏するのに、救われる者の力を借りることは全くありません。ただ如来の本願力だけで救いを実現させるのが本願の宗義であるといわれているのです。ですから、悪人は悪人のまま、素直に本願力に身をまかせて往生していきます。一方、自力で成した善行をたのんで一筋に他力をたのむ心のない善人であっても、やがては自力の智慧では完全なさとりを実現することはできないと気づく時が来ます。そうした善人は善人のまま、自力を捨てて、阿弥陀仏の本願力に乗じて往生し成仏していくのです。このように煩悩妄念をどうすることもできず、性懲りもなく悪業を積んで苦悩にさいなまれている極悪最下の者に焦点を合わせ、同時に善人までも包摂するというのが阿弥陀仏の本願の特徴でした。そしてそのような特徴を持った本願の教義を、悪人正機説と言われているのです。
ところで、このような悪人を正機とし、善人を傍機として救いを説く教えが浄土門、中でも浄土真宗であるのに対して、廃悪修善のできる善人を正しき教化の目当て(正機)とし、悪人の救いは第二義的(傍機)としているのが聖道門の教えです。聖道門では、賢善な聖者を手本として、悪人は賢者に、さらに聖者になり、最高の善を実現した仏陀になることを目指せと教えています。最低の悪から最高の善に至るのには無限の階層がありますが、ともかく最低の悪人では救いようがありませんから、さまざまな方便を設けて、悪人に善を勧め、少しでも善をなせばそれを評価して、さらに良くなるように導いていかれるのです。ですから悪人は悪人のままでさとりを完成するということではありません。悪人は善人になるように廃悪修善を実践し、自分の心を浄化していかねばならないのです。到底、誰もが歩めるという安易な道ではありません。しかも目指すところである仏陀のさとりへは、勝れた素質をもった方が、永劫にわたる難行を実践していくことでようやく到達できるという非常に厳しい教えです。こうした聖道門の教えを善人正機・悪人傍機といいます。
以上申し上げてきたように、浄土真宗は悪人を本願の正しきお目当てとし、善人にもその救いを及ぼしていく法門ですから、別に善人がいたところで悪人正機の教説が揺らぐことはありません。それどころか、阿弥陀仏は煩悩に苛まれて苦悩の渦中で喘ぎ苦しみ、それをどうすることもできない、出離の縁あることなき悪人である私を助けるために発願し、永劫の修行を経てこの素晴らしき法門を完成して下されたのか。もし善人を正機とされていたら、必ず私は落ちこぼれ、救いから漏れていたに違いない。有難い、かたじけないことであると、いよいよ無上殊勝のご本願、稀有の大弘誓であることを知らせて頂くのです。

さて、世の中には善人と悪人とがいるとはいっても、他人のことはどうでもいい、自分はさとりを開くてがかりもない煩悩具足の悪人なのだから悪人として仏法を求めればいいのではないか、善人がいてもいなくてもどちらでもよいではないか、と思われる方もあるかもしれません。しかし、善人と悪人とがいると認められないことが、やがて教義に対する大きな誤解を生み出していきます。
釈尊は千差万別の機の程度に応じて様々な法を説き与えてゆかれましたが、では一体善人には何を勧め、悪人には何を勧められていかれたのでしょうか。それを正しく把握・理解していないから、親鸞聖人の教えには善の勧めがあるとか、19願・20願の道程を経なければ18願の世界へ出られないとか、18願の世界を目指して定散二善や六度万行をせよとか、善をしなければ信仰は進みません、などという頓珍漢な教えを正しいと信じ込んでしまうのです。それは、主に

4.獲信のために善は必要か
6.定散二善について
7.19願について


の内容に関わってきますので、また後々述べていきたいと思います。

それにしても、私は「世の中には、善人と悪人とがいる」と言っているまでで、「私は善人である」「自分は悪人ではない」と言ったり書いたりした覚えはありません。なのに、どうして「知ってるから応えるよ」さんは、

悪人でないなら、阿弥陀如来の本願によらず、
自力修行で悟りを開いてみるよろし。


などと、私が自分のことを善人だと思っているかのように決めつけてかかるのでしょうか。全く的外れの回答です。悪人正機のことといい、彼は一体真宗教義の何を知っているのか、こんなことを書いてきて恥ずかしくないのかと思います。やはり『飛雲』にある通り、親鸞会のように全人類は悪人だとすると、自分より上がいないことに加えて、自分達以外に真実を知っている者はいない、世間の人は皆真実を知らずに苦から苦への綱渡りで、そして後生は必堕無間なんだと他人を見下してしか考えられなくなるのかも知れません。会長や講師部員、一部の会員の傲慢さはこうした誤解から来ているようです。真宗学もろくに知らない高森会長がてっぺんだと思っているから、会の外に出ると実は完璧と思っていた教学は役に立たず、真宗についての知識は乏しいし視野も狭い、相手の話も聞かず、果ては相手の主張を歪曲して考えるようになってしまうのです。

では今回は、こう返して終わりたいと思います。

********************
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

自分の力で、ある程度のさとりを開くことができる人を善人と言っています。
善人がいたところで悪人正機の教説は揺らぎません。
また、私は「世の中には善人と悪人がいると」主張しているだけです。
いつどこで私は悪人ではない、善人であると申し上げたでしょうか。
もう少し相手の主張を確かめてから物を言って下さい。

********************

【参考文献】親鸞聖人の教え・問答集(梯實圓)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード