【4.獲信のために善は必要か】について(2)

前回の続きです。

善導大師、法然聖人の教えを承けて親鸞聖人は、浄土真実の行は念仏であると仰っています。すなわち、『行文類』大行釈

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。

とあり、同じく『行文類』経文結釈「破闇満願」に、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

とある通りです。一方、諸善に関しては『行文類』念仏諸善比校対論にて念仏と48項目に亘って比較されています。「念仏はこのような点で勝れているが、諸善はこのような点で劣っている」という比較がずらりと48項目なされているということです。今は、

勧無勧対念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

を抜き出しておくに留めますが、これを読んでそれでも諸善が勧められていると言うのならば、その人の国語の能力から疑ってかかるしかありません。

特に悪人には念仏しか救う手立てがありませんから、源信僧都は『往生要集』念仏証拠門

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と仰り、親鸞聖人はそこへ定散諸機の善人を加えて『化身土文類』結勧にて

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と仰せられています。定散の諸機は極重の悪人と違って他の方便ある方々ですが、それらの方々に対しても親鸞聖人は「ただ弥陀を称せよ」とお勧めになっています。これが逆悪の機、極重悪人、下品下生であるなら尚更念仏しかありません。

善人には何を、悪人には何を勧められているか。最も分かりやすいのが『持名鈔』(存覚上人)のお言葉でしょう。

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。
これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。
されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。


釈尊は、良医が病状に合わせて薬を与えるように、機に応じて様々な法門を説き与えてゆかれました。これを対機説法、応病与薬と言っています。それは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」と仰せのように、 善人には諸善を授け、悪人には念仏を勧める、というものだったのです。病の軽い人、すなわち善人は諸善の力でも助けることができるが、病の重い人、すなわち悪人は念仏の力でなければ救えないというのです。法然上人はそれを「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く」と仰っています。

それに対して高森会長はどうでしょうか。親鸞会では、全ての人間は五逆・謗法の者であり、一つの善もできない極悪人であると説いています。ならば尚のこと念仏しか救われる手立てがないのですが、そうではなく善人に説かれた諸善を勧めるのです。これが高森会長自ら本に書いている「肛門に目薬」ということです。それぞれの病人の状態に応じて適切な薬を処方するのが良医でありますが、高森会長は瀕死の重病人に醍醐の妙薬を飲ませるどころか「歩け」「走れ」「泳げ」と命じているようなものです。これでは悪医、やぶ医者というほかありませんね。

このように、浄土真宗の祖師方は一貫して悪人には諸善の勧めはなく、念仏のみを往生の行としてお勧めになっています。最初から最後まで「念仏一つ、獲信に善は不要」です。実に明快で分かりやすい教えです。一方で「善をせよ」と言い、もう一方では「善を捨てよ」という、相反する二つのことなど教えられていません。ではどうして高森会長は親鸞聖人の仰せと異なることを主張し、獲信に不要である善を勧めるのでしょうか。それは高森会長が親鸞聖人より偉いか、あるいは会員の往生・獲信以外に目的があるかのどちらかでしょう。読者の皆様は、もう何も言わなくてもお分かりかと思います。

ちなみに余談ですが、善を絶対にしてしまうという彼は、『観経』でいえば平生に悪しか造ってこなかった下三品に入りません。少なくとも中品下生以上の善人ということです。そんな彼なら散善という方便の手立てが用意されているかも知れませんが、それだと「全ての人は五逆・謗法」という高森会長の教えとは対立してしまいます。気付いているでしょうかね。
では今回はこう返して終わりたいと思います。

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親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

善を絶対にしてしまうなら、貴方は悪人ではありません。
「悪人でないなら、阿弥陀如来の本願によらず、
自力修行で悟りを開いてみるよろし。」はそっくりそのまま返します。
高森会長が言っている「善を捨てよ」 「捨てようとする心まで捨てよ」とは信一念のことで、
それまでは「善をしなければ信仰は進みません」と善を勧めているでしょう。
それで「獲信に善は不要」としか仰っていない親鸞聖人と同じであるなどとよく言えますね。
では、なぜ相反するような二つのことを言ってるか。
それは高森会長の目的が会員の往生・獲信とは別にあるということです。

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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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