【6.定散二善について】について

今回は、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点10項目の内、第6項目について取り上げます。まずは「知ってるから応えるよ」さんのコメントです。

6.定散二善について
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親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

善は捨てよとも言ってる。
親鸞会のアニメ見たことないんですか?

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これに関しては、『浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?』⑤白道についてを、
『飛雲』では2012年4月の記事をご覧下さい。

最近、危険ドラッグ(脱法ハーブ)による交通事故や事件が多発しています。「危険ドラッグを使用しないで」と呼び掛けられていますが、これは危険ドラッグを使用している人だけに言われているのでしょうか? そうではありませんね。当然まだ使用していない人にも言われています。今後危険ドラッグに興味を持って使用し、自他共に不幸になる人がいるかも知れないからです。これが親鸞会の理屈では、危険ドラッグを使用していない人に「危険ドラッグをやめよ」とは言わないそうです。危険ドラッグがどんなものか分からないとやめられないので、「まず危険ドラッグを使用させ、危険であることを自覚させて、それからやめよ」ということになりますが、果たしてそんな意味でしょうか?
また、歩きスマホによる事故やケガも多く、「歩きスマホをするな」と注意されています。これも、歩きスマホをしている人だけに言われているのでしょうか? そうではありません。まだ歩きスマホをしていない人にも、今後歩きスマホをするかも知れない、そして事故やケガを引き起こすかも知れないから言われているのです。これも親鸞会の理屈では、歩きスマホをしていない人に「歩きスマホをするな」とは言わないそうです。歩きスマホとはどんな行為か分からないとやめられないので、「まず歩きスマホをさせ、危ない行為であることを自覚させて、それからするな」ということになりますが、そんな意味でしょうか? 答えは言うまでもありません。
定散二善にしても同じです。「定散二善を捨てよ」とは、定散二善に励んでいる人だけに言われているのではありません。まだ定散二善をしていない人にも、難しい行である上に、たとえ成就しても化土へしか往けない行であるから、報土往生を願うならば「定散二善を捨てよ」と説かれるわけです。「定散二善を捨てよ」とは、「まず定散二善をやらせて、できない自分を知らせて、それから捨てよ」ということではありません。最初から「定散二善を捨てよ」です。この二つが同じことなのか、違うことなのか。分からないのは理解能力が著しく低下した高森学徒くらいのものでしょう。

【4.獲信のために善は必要か】について(1)にて既に示しましたが、法然聖人は「定散二善を捨てて念仏一行を専ら修せよ」とばかり教えられています。

・定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。 念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。

・ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

・しかればすなはち十三定観は、みなもつて付属せざるところの行なり。しかるに世の人、もし観仏等を楽ひて念仏を修せざるは、これ遠く弥陀の本願を乖くのみにもあらず、またこれ近くは釈尊の付属に違ふ。行者よろしく商量すべし。

・つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもつて付属流通せず。ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。 知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。 また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。

・いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。 一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。(念仏付属章


師である法然聖人がこうまで仰っているのに、弟子である親鸞聖人が「定散二善をせよ」などと門弟や同行の方々に教えるわけがありません。親鸞聖人は

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。信文類
(横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である。また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。)

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。化身土文類
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

と仰って、定散二善は横超ではなく横出の教えだと言われています。それは、速やかにさとりを開く頓教ではなく、さとりに長い時を費やす漸教であって、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えです。また、

定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
(中略)
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。(
末灯鈔

とも教えられています。定散二善を修する自力の行人は、来迎がなければ化土往生もかないません。こういうわけですから、第十九願に「もろもろの善をして浄土に回向して往生しようと願う人の臨終には、私(阿弥陀仏)が現れて浄土に迎えよう」と誓われているというのです。なので、定散二善を勧めるということは、諸行往生、来迎往生を勧めることに他ならず、浄土真宗に非ざる方便仮門の教説を勧めているということになります。
このようなわけですから、以前にも示したように、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)
また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と、往生にはただ念仏一つなのです。特に私達が悪人だと言うなら尚更です。どこに定散二善が勧められていますか? 十九願や定散二善を根拠として、往生・獲信のために善を勧める親鸞会が、如何に真宗とかけ離れた団体かお判りでしょう。親鸞会の維持・存続、発展のためには絶対に”善の勧め”が必要なだけで、会員の往生・獲信には無関心、どころか獲信されては教義の誤りがばれてしまうのでさせたくないのです。


ところでこの記事を書いている途中に思い出したのですが、私が親鸞会にいた時は、「善は捨てよ」などとは教えられていなかった気がします。親鸞会教義では、

「雑行を捨てよ」とは「善をする時の心掛けが悪いから、悪い心掛け(自力の心)を捨てよ」ということで、善をするなとか、善をやめよとか、善を捨てよということではない

と記憶しています。そして信後の諸善は御恩報謝の行だと聞いていますので、信前信後通じて「善は捨てよ」とは言われなかったと思いますが、私の記憶違いか、あるいは教えが変わったのでしょうか? 「知ってるから応えるよ」さんはアニメに「善は捨てよ」と言ってるような書き方をしていますが、思い返してもそんな台詞は浮かびません。私の記憶通りとすると、彼は親鸞会の聞き損ないということになります。真宗の教えどころか、親鸞会教義も十分理解しているか怪しい、アニメ『世界の光 親鸞聖人』さえ私ほども見ているかどうか疑問なのに、何を知っているのかと問いたくなってしまいます。では、今回はこう返しておきましょう。

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親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

親鸞聖人は「定散二善を捨てよ」としか教えられていない。
お聖教のどこに「定散二善をせよ」と教えられているんですか。
『選択本願念仏集』や『教行証文類』は見たことないんですか?
それと、アニメ第何部のどのシーンで「善は捨てよ」と言ってるんでしょうか?
「一切の自力の心を捨てよ。全ての計らいを捨てよ。捨てようとする心も捨てよ」
というような台詞は覚えていますが、「善は捨てよ」なんて聞き覚えないんですけど。

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No title

高森会長は「善をしなければ善果は来ないし、信仰は進みませんよ。」と繰り返し徹底しました。
「自力の心を捨てよ」の意味は、「善という行為が悪いのではない。心掛けが悪いから心掛けを捨てよ。」(by高森会長)という意味です。
善を捨てよなどと一言も言っていません。
この人物は自分が最も(建前上は親鸞聖人の次に)尊敬する人物の言葉も忘れてしまったのでしょうか。
聴聞姿勢が全然ダメですね。
高森会長の頭の上に立って高森会長を誹謗していると言っても良さそうです。(笑)

>名無し様

そうですよね。ありがとうございます。

私としては今更高森会長が「善は捨てよ」と言っていようがいまいがどちらでもよいので、少し前に書いた記事はそのままにしておきます。

No title

親鸞会の教えだと、全ての外道を捨てるには、全ての外道を実践して、助からないことが知らされないと仏教まで到達できません。そんな時間の余裕を持つ凡夫がどこにいますか。無常迅速ではないですか。何が横超の直道ですか。会長がお酌する悪い酒に「キミは正定聚だよ」と酔わされている会員が哀れです。

No title

「念仏は弥陀そのもの」「極楽に生まれたいと本願を信じさせて頂き、称えさせて頂くことで、 弥陀と一体になる不思議は親鸞会にワカルマイ。念仏は味気ないなど良く言ったものだ。法誹罪を知らんのか。善の勧めは弥陀が言ったか。18願にも成就文にもない教えは外道と自ら言っていたのでなかったか。十方衆生がすべて善が出来るなら、善を往生の因にされたのではなかったか。自らの善でなんとかというのは、弥陀の願いを傍らにしている心と気づけよ。

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愚愚流様

せめて聖道門の教え位実践するべきですよね。釈尊が説かれたれっきとした権仮方便の教説なのですから。所詮は献金と勧誘を勧めるために方便、宿善、19願が必要なだけの悪徳新興宗教です。


後の名無し様

念仏を勧めれば称名正因と貶める始末ですから、まず分かる人はいないでしょうね。教義的に矛盾していることも、高森信心のせいで無理矢理整合性を図ってしまうのですから手に負えません。高森信心から解き放たれて頂きたいばかりです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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