Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)

会員の人から実際に受けた疑問点や会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

Q&A(3)の続きです。


Q、
善導大師は「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と、ド真剣に善をすることを勧められています。これは、早く弥陀の救いを求める人に説かれた教えだからこそ、親鸞聖人は「善導独明仏正意」と善導大師を絶賛されているのではありませんか?



A、
まず、「善導独明仏正意」と親鸞聖人が善導大師を賞讃されたのは、ド真剣に善をすることを勧めたからではありません。『六要鈔』には、「善導独明仏正意」を次のように解釈されています。

大師の讃、「善導」等とは、『選択集』の意は諸師多しといえども、独り今師に依る。蓋し仏証を請して古今を楷定し、明かに別意弘願の正旨を顕わすが故なり。これに依りて、或いは弥陀の化身といい、或いは経文を勘みて直ちに教主釈尊の再誕という。更に余師に準ずべからざる者なり。

弘願(18願)の正しい意を明らかにされたので、誉め讃えられたことが分かります。


次に、早く弥陀の救いを求める人はどうすればよいのかについては、前回、Q&A(3)ー速やかに生死を離れようとおもうならに書いた通りです。18願一つを求めて下さい。


最後に、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」は、『観無量寿経疏・散善義』に出てくるお言葉です。

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。

と『観無量寿経』には、阿弥陀仏の浄土に往生しようとするものは「至誠心、深心、回向発願心」の三心をおこさなければならないと説かれています。
『観無量寿経』の三心は、定善、散善、念仏と組み合う場合がありますので、必ずしも一つにはなりません。
しかし、本願の念仏と組み合う場合は、本願の「至心、信楽、欲生」と同一になります。
善導大師が『観無量寿経』の三心を解釈されるとき、本願の念仏と組み合う三心として註釈されることに主眼が置かれていました。
「外に賢善精進の相を現じて~」は、その至誠心釈に出てくるお言葉です。
親鸞会では、一部分を取り出して教えられているので、ここでは前後を含めてみてみます。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

このお言葉によりますと、浄土に往生しようとするものは、至誠心(真実心)をおこして、真実の自利・利他の行を実践しなければならないように見えます。

しかし、次の深心釈の「機の深信」には、現に罪悪生死の凡夫であり、さとりを得るてがかりさえもない自己であると信知したことが述べられています。

これがどういうことなのかについて、『本願のこころ』(梯實圓著 法蔵館)66~68ページから引用します。

その機の深信の内容は、明らかに浄土にふさわしい真実はまったく持ち合わせていない自身であるといわれているとしなければなりません。そのようにいわれている善導大師が、至誠心(真実心)を発せといわれたのは、私に真実心をおこせと要求されていたのではなくて、もっと違った意味を表そうとされていたのではないかと最初に気づかれたのは、法然聖人でした。醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡および御法語」のなかに、善導大師の至誠心釈にこめられていた深い意味を、次のように読み取っておられます。

ここを以て今の文に「正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、皆真実心の中に作すに由るべし」云々。阿弥陀仏因中の真実心中作に由る行こそ悪雑はらざるの善なるがゆゑに真実と云ふなり。その義なにを以て知ることを得、次の釈に「凡所施為趣求亦皆真実」文。ここに真実を以て施すとは何者に施すと云えば、深心の二種の釈の第一、罪悪生死の凡夫といえる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由るべき機なり。云何が知ることを得る。第二の釈に、「阿弥陀仏四十八願衆生を摂受す」等と云々。かくのごとく心得べきなり云々(『法然上人伝全集』七八二頁)

少し難しい文章ですので、現代語訳をしておきます。

「善導大師のこの文は、阿弥陀仏が因位の時に真実心をもって作された(行)に由るべしといわれているのです。阿弥陀仏が因位の時になされた行こそ、少しの悪も雑わらない善ですから真実というのです。そのような道理をどうして知ることができるのかといえば、次の釈に、<およそ施為趣求するところ、またみな真実なり>といわれているからです。<施為>とは大悲を以て衆生に功徳を施し与える利他の働きのことであり、<趣求>とは智慧をもって涅槃のさとりを極めようとする自利の活動のことです。ここに(如来が)真実心を以て施すといわれていますが、何者に施されるのかといえば、次の深心釈に示されている罪悪生死の凡夫に施されるのです。深心釈には、一つの深心(真実の信心)を二つに開いて、救いの目当てとなっている機(自身)についての深信と、それを救う本願の法についての深信の二種があげられています。その第一の機の深信に<罪悪生死の凡夫>といわれている<この機>に施されるのです。罪悪を造りつつある凡夫こそ、取りも直さずこの真実(如来の真実心)に由るべき機なのです。どうしてそのようなことがわかるかといいますと、深心の第二の釈、すなわち法の深信の中に<阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう>等」といわれているからです。このように至誠心釈は心得るべきです。


この法然聖人の結論を承けて、親鸞聖人は至誠心釈を独自の訓点で読まれるのですが、長くなりましたので、それについては別の記事で書きます。

(つづく)
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 そもそもS会のような解釈ですと、なぜ宗祖がわざわざ「不得外現…」の善導大師のお言葉をあのように読み替えられたか、全く説明がつきませんね。
 また、善導大師の時代も宗祖の時代も、聖道門の諸師が皆、すべからく善を勧めていたのに、なぜ「善導独り」と褒めたたえられるのか、これも説明がつきません。
 ご法義にさほど明るくない人でも、理屈で少し考えればわかるような矛盾した教えを、得意満面で説くS会の幼稚さ、また、そんな教えに納得させられてしまうMCの恐ろしさを感じますね。

>るぅでる様

仰る通りと思います。
親鸞会は内外廃立、聖浄廃立は威勢よくやるんですが、真仮廃立となると手のひら返したように従仮入真論を採用します。
仮を廃して真を用いるのが阿弥陀仏の御心に叶っていますから親鸞聖人はそのように教えられました。

相手は何十年とその世界で食べているプロ、対して私達は世間知らずの青二才だった、腹立たしいですが、それだけの事です。
まだ私達は気づけたからよかったですが、まだまだ親鸞会こそ真実と根拠もなく盲信している人が沢山います。微力ですが、会員の皆さんが気づくお手伝いをしていきたいと思います。

No title

以前は短冊で言葉は知っていても、どういう関係にあるかを知らなかった私でした。
ここも意味を知ると衝撃的ですね。続き楽しみにしています。

>ぶりぱぱ様

私もそうでした。
御文を前後を通して読み、正しく意味を理解しなければなりませんね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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