親鸞会の邪義が邪義であるということが「今こそ明かに知られたり」

親鸞会では信前信後の水際が立つ、信心決定は火に触るよりもハッキリした体験であるとやかましく言い、その根拠として先日取り上げた「明信仏智」(大無量寿経)他いくつかの御文を挙げています。今回は『御文章』の以下のお言葉を取り上げてみたいと思います。


しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。『御文章』二帖目十三通

まず、この御文が取り扱われている親鸞会発行『教学聖典(4)』問(15)をご覧下さい。

(問)
阿弥陀如来に救い摂られた自らのことを明言されている、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉と、根拠を示せ。

(答)
○愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)
○われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ。(執持鈔)
○他力の信心ということをば今既に獲たり、乃至今こそ明かに知られたり。(御文章)


『こんなことが知りたい①』p.32~p.36では、上記の御文等を挙げて、

「他力の信心を獲ると、火にさわったようにハッキリするものである」
「他力信心を獲たということは、極めてハッキリと救われた鮮明な体験である」


と主張しています。
しかし、親鸞聖人のお言葉にしても覚如上人のお言葉にしても、会長が言っているような内容の根拠とは言えません。雑行を棄てて本願に帰した、名号を信受して往生の業が成就したことをよろこぶ、と仰ってはいますが、信心決定が極めてハッキリと救われた鮮明な体験であるなどとは、ここから読み取ることはできません。
蓮如上人のお言葉にしてもそうです。こちらについては、しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。・・・(信文類)のお言葉同様、大事なところが「乃至」となっています。つくづく高森顕徹という人物は、自説に都合のよい部分だけを切り取って利用する、偽の仏弟子だと知らされます。
ここで蓮如上人は、何を「いまこそあきらかにしられたり」と仰っているのかというと、

・弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心
・行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふこと


です。他力の信心というのは、行者が自分で起こす信心ではなく、阿弥陀如来の御方より授けられる他力回向の信心であるということが今こそ明かに知らされたと仰っているのです。高森会長が言っているような、信前信後の水際が立つ、信心決定は火に触るよりもハッキリした体験であると仰ったものではありません。
ついでに二帖目十三通を通読しても、また他の御文を拝読しても、この弥陀如来他力の大信心を獲るために善をせよとか、宿善を厚くせよとか、19願から始めよとか、いつものデタラメ創作教義は一言も書かれておりません。一方『執持鈔』にしても、

・臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。
・さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
・しかれば善も極楽に生るるたねにならざれば、往生のためにはその要なし、悪もまたさきのごとし。
・本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。


等々、親鸞会教義を否定することばかり書かれています。列記した御文はほんの一部分ですから、まだ執持鈔を通読されていない方は一読されることをお勧めします。兎にも角にも、お聖教に触れれば触れるほど、親鸞会の邪義が邪義であるということが「今こそ明かに知られたり」です。

勿論、祖師方が仰せのように本願に帰したならその事は認識に乗るわけですが、帰した瞬間、いわゆる信一念がハッキリと自覚できるかというとそれはまた別問題です。もし獲信した人全てがそんなにハッキリ自覚できるものなら、「信一念がハッキリ自覚できる」ことを示す御文がなければなりませんし、例えば親鸞聖人がお亡くなりになった「弘長二年霜月下旬八日の午の刻」位詳しく年月日時を言えるはずです。ところがそのようなお言葉は見当たりません。獲信した時にしたところで、親鸞聖人でさえ「建仁辛酉の暦」としか仰っておらず、覚如上人・蓮如上人に至ってはいつ獲信されたのかさえ仰っていません。書き残されていないということは、いつ獲信したかとか、信心決定の瞬間がハッキリ自覚できるできないとかは重要ではないということです。ところが、高森会長の話や、アニメの親鸞聖人・韋提希の獲信シーンを見聞きする限り、本願に帰した瞬間がハッキリと自覚できるものであり、逆に信一念の瞬間の自覚がないのは真実信心ではないと思ってしまいます。
獲信した人にとって、信一念はもはや過去のことです。そこで鮮やかなハッキリした体験をしたとしても、現在となってはそれは単なる記憶に過ぎません。他力の信心とは、過去の体験をたのむものでもなければ、未来に向かってお助けを期待するものでもありません。現在只今、この場で、この私が「助けるぞ」と喚びづめの大悲招喚の勅命を疑いなく聞き受けている、そして自力の計らいを捨ててひとえに後生をおまかせしている、これが他力の信心です。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔)

どんなに鮮やかなハッキリした体験をしたとしても、そこでどんなに喜びの心が起きたとしても、現在後生を阿弥陀さまにおまかせしていないとしたらそれは他力の信心ではありません。救われた瞬間がハッキリ自覚できねばならないと思い込んでいる方は、まずその思い込みを取り払って本願の仰せを聞いて頂きたいと思います。

さて、親鸞会でも他力回向の信心と言ったりはしますが、縦と横の線を使って信一念と信前を区別し、ダブルスタンダードな教えを会員に説き与えています。そのせいで聞く者は、縦の線(信一念)で阿弥陀仏より回向されるが、そこまでは横の道を進んでいかねば獲られないと信じ込み、獲信に無関係なことばかりに従事しています。極めて鮮やかなハッキリした体験を夢見させて獲信・往生に無用な献金・勧誘・無条件服従を強いる親鸞会は、浄土真宗とは無縁な新興宗教です。これ以上、教に昏くして真仮の門戸を知らぬエセ真宗にいて永劫の未来に何か得があるか、よく考えて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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