一方では「次第にその迷雲も晴れ」、一方では「今こそ明らかに知られたりと驚きたつ」。どっちが本当?

かつて高森会長は浄土真宗華光会に在籍しており、その時の高森会長の体験談が

『浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会』高森会長の信心~次第にその迷雲が晴れるのですか??

に紹介されておりますので引用してみましょう。

********************
 何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。

 求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々

 これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏

 今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
 しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。

【華光会発行『華光』第5巻第5号「私の信仰体験」】

********************

この文章からでは、信前信後の水際が立つ、信心決定は火に触るよりもハッキリした体験であるということは言えません。それが、後に発行した『こんなことが知りたい①』p.44~p.45には

********************
 それでは、信心決定すると同時に晴れ渡る疑心とは何かといいますと、阿弥陀仏の本願に対する疑いの心です。後生と踏み出すと何となく不安な心です。これを本願疑惑とか、仏智疑惑とか、不定の心とか、二心とか、ツユチリの疑いとか、三世の業障とかいわれているものです。
「ひょっとしたら、私はまだ信心決定していないのではなかろうか」
とか
「ハテナ、こんな心があってもよいのだろうか」
などと思う心は、みんなこの疑心なのです。
 このような疑心は兎の毛の先で突いたほどあっても、絶対に信心決定していないのです。だから蓮如上人は「ツユチリほどの疑心あれば極楽に往生せずして、無間地獄に堕在すべし」とか「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候」と手に汗握って、ご勧化になっているのです。ところが、これらのモヤモヤした疑心が、他力信心を獲ると同時に晴れ渡って日本晴れの大安心、大満足の心になれるのです。
 その時こそ、今こそ明らかに知られたりと驚きたつのであって、真実の他力信心は、断じてボンヤリしたものではないのです。

********************

と書かれています。一方では「次第にその迷雲も晴れ」、一方では「今こそ明らかに知られたりと驚きたつ」。どっちが本当なのでしょうか? 仮に後者の文章が正しいとすると、前者は真実の他力信心とは言い難いですね。この2つの文章の著者が同じとはとても思えない内容です。

これは私の推測ですが、どうしてこのように信心決定を火に触ったよりもハッキリした体験と言うようになったかというと、このように説くことで聞く者の求信・求道の原動力としたかったのではないかと思います。親鸞会教義をまともに受け止めれば、後生は必堕無間で退路は断たれていますから信心決定を目指すよりありません。しかし簡単に信心決定されてしまったら、会の発展のために尽くしてくれる人は果たしてどれだけあるか疑問です。いくら御恩報謝のためとはいえ、親鸞聖人のように不惜身命のご活躍をされる方は稀です。総じて已信の人よりも未信の人の方が、後生の一大事助かりたい、助かるためならと多くの時間やお金、労力をつぎ込んでくれます。親鸞会的には、信を取る人よりも、会に多くのものを献上してくれる人の方が都合がよいわけです。
そこで、「信心決定は極めて鮮明な体験で、ハッキリしてない内は助かっておらんのだからハッキリするまで求め抜け」などと説きます。すると聞く方は「ハッキリした体験をしたのが信心か」と勘違いしてくれます。そして助かるには宿善を厚くせよ、中でも一番の宿善は破邪顕正だとか、真実伝える団体にお布施をすることも尊い宿善になる、とでも説き与えれば、「ハッキリするまで求め抜こう」と信心決定を目指して献金と勧誘に尽力してくれる人材が確保されます。救いを匂わせておいて、別の所へ誘導するわけです。あとは未来永劫浮かぶか沈むかの一大事なのだからとか言って中々信心決定できない理由づけをしたり、あるいは恩徳報謝賞などの賞を与えたり、数少ない救われた人を機関紙に載せたりしてモチベーション維持を図るのみです。ちなみに昔の名残といいますか、親鸞会の著書にもあるので宿善がどうたらこうたらということも言いますが、現在は「救われるにはこうせよ」という部分が主に親鸞会流三願転入の教えとなっています。

引用した二つの文章の内、どちらが高森会長の真意なのか、また高森会長の信心は真実信心なのかどうか。前者はともかくとし、後者ばかりは阿弥陀仏と会長のみぞ知るで第三者には伺い知れませんが、お聖教に根拠のないことを説くだけでなく、会員に獲信・往生とは無関係なことばかりやらせている点から、教えは間違いなく邪義です。たまに「南無阿弥陀仏を聞く一つで浄土往生が決まる」などともっともらしいことを説いたところで、会員は散々聞かされてきた因果の道理やら、廃悪修善やら、十九願やらで頭の中はがんじがらめでしょう。縦と横の線でいえば、自分はまだまだ縦の線には程遠いとしか感じられず、只今無条件の救いを未来有条件の救いとしか捉えられていないと思います。報恩講の時のように、ほんの時たま救いを匂わせる話をするので、そこが本当に厭らしいです。
何度も言いますが、浄土真宗には獲信・往生に関して善の勧めはありません。弥陀の救いに遇うのに方法論はなく、ひとえに本願の仰せをそのままお受けし、ひとえに往生をおまかせするのみです。それを知ってか知らずか、会員を献金・勧誘に駆り立てる方法論を説く高森会長からは、会員の獲信・往生を願う気持ちが全く感じられません。只今の救いなのですから、本当に只今救われるのです。それをもし5年経っても10年経っても20年経っても救われない、周囲を見渡しても救われている人が見受けられないのならば、もっと教義について深く考え疑問を持って下さい。大事なことはちゃんと自分で考えないと、高森会長や上司に従っているだけではいけませんよ。今宵後生となったら満足して死んでゆけるのか、親鸞会の教えで自分は助かるのか、会員の皆さんはくれぐれもよくお考え下さい。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード