難行、易行について

親鸞会が、「信心決定とは極めてハッキリと救われた鮮明な体験である」根拠の一つとして用いているのが、

建仁第一の暦春のころ[上人(親鸞)二十九歳]隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。 『御伝鈔』

のお言葉です。親鸞会発行『教学聖典(4)』問(16)の答えとしてありますので、会員の皆さんも馴染みのある御文だと思います。ただし例によって太字部分は省略されています。ちなみに『こんなことが知りたい①』では全文載っています。

このお言葉を通して私が言いたいことは2つあります。1つ目は、なぜこのお言葉等をもって、「信心決定とは極めてハッキリと救われた鮮明な体験である」とか、「信一念の瞬間がハッキリと自覚できる」という自説の根拠とするのかが理解できないということです。
『教学聖典(4)』にあるように、このお言葉を単に「親鸞聖人が信心獲得された時のことを明示されている御文」として挙げているなら、本当は違いますがまだそれほど差し支えはないでしょう(雑行の意味さえ知らない高森顕徹会長参照)。
しかし、「信心決定とは極めてハッキリと救われた鮮明な体験である」「信一念の瞬間がハッキリと自覚できる」という自説の根拠とするにはいささかおかしいというものです。それにこれは『御伝鈔』のお言葉であって親鸞聖人が書かれたものではありませんから、このお言葉のみを「親鸞聖人は信一念の瞬間をハッキリと自覚された」などと断定することはできません。高森会長が「信一念の瞬間はハッキリと自覚するものだ」と主張するなら、新たに御文を示す必要があります。そういうお言葉はあるのかも知れませんが、少なくとも私は見つけられていません。

2つ目は、難行・易行ということについてです。親鸞会では難行といったら難行道・聖道門のこと、易行といったら易行道・浄土門のことという認識があると思います。『御伝鈔』のお言葉も比叡山天台宗の難行道・聖道門から吉水法然聖人の易行道・浄土門におもむかれた、というだけに思われる方があるかも知れません。勿論、先の御文はそういう理解で構わないのですが、浄土真宗では難行とは諸行(諸善)のこと、易行とは念仏のことだと存覚上人は教えられています。そして、真実報土の往生を遂げようと思うなら、難行である諸善を捨てて、易行である念仏に帰せよというのです。

諸行と念仏と、その因おなじからざれば、胎生と化生と勝劣はるかにことなるべし。しかればすなはち、その行因をいへば、諸行は難行なり、念仏は易行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし。その益を論ずれば、来迎は方便なり、得生は真実なり。もつとも方便にとどまらずして真実をもとむべし。いかにいはんや来迎は不定の益なり、「仮令不与大衆囲繞」(大経・上)と説くがゆゑに。得生は決定の益なり、「若不生者不取正覚」(同・上)といふがゆゑに。その果処をいへば、胎生は化土の往生なり、化生は報土の往生なり。もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べきものなり。されば真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑなり。『浄土真要鈔』末【14】

『真要鈔』末では、来迎と得生(往生を得)についてや、胎生(化土往生)と化生(報土往生)についての問答がなされています。そこでは、

諸行(諸善)は化土往生の因であり、その化土往生も来迎がなければ叶わない不定の益である、なぜなら『大経』に「仮令不与大衆囲繞」と説かれているからだ

と、第十九願文を挙げて教えられています。それに対して、

弥陀如来の不思議の仏智を信じ念仏する者は必ず往生を得る、なぜなら『大経』に「若不生者不取正覚」と説かれているからだ

と、第十八願文を挙げて得生は決定の益であると言われています。いつものようにまとめますと、

十九願―諸善―来迎―化土往生―不定の益
十八願―念仏―得生―報土往生―決定の益

となります。この内、第十八願を信じ念仏する者を他力真実の行人といい、第十九願をたのみにして諸善を修め往生を願う者を自力不真実の行人と言われています。

他力真実の行人は、第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果を得るなり。これを念仏往生といふ。これ真実報土の往生なり。(中略)
自力不真実の行人は、第十九の願に誓ひましますところ の「修諸功徳 乃至 現其人前」(大経・上)の文をたのみて、のぞみを極楽にかく。しかれどももとより諸善は本願にあらず、浄土の生因にあらざるがゆゑに、報土の往生をとげず。もしとぐるも、これ胎生辺地の往生なり。(真要鈔末【11】)


「しかれどももとより諸善は本願にあらず、浄土の生因にあらざるがゆゑに、報土の往生をとげず。もしとぐるも、これ胎生辺地の往生なり」
「もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べきものなり」

というのですから、諸善や第十九願が勧められているわけがないのです。『真要鈔』を全文見ても、どこにも諸善や十九願の勧めはありません。諸善は本願の行ではなく、報土往生の生因でもないからです。そしてもし往生を遂げても化土往生だからです。存覚上人は親鸞会流三願転入の教えを完全に否定しています。蓮如上人はその存覚上人のことを釈尊の化身、勢至菩薩の化身とまで仰っている(仏及び仏の化身方の仰せと、高森会長の主張との違い)のですから、十八願の世界に入るために十九願から始めよなどという頓珍漢な教えが真宗にあるわけがありません。


会員の皆さんが親鸞会に在籍している目的が報土往生ということであれば、「諸行は難行なり、念仏は易行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし」「もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べきものなり。されば真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑなり」という御言葉に順って難行である諸善は捨てて、本願を信じ念仏する他力真実の行人となって頂きたいと思います。まぁ親鸞会への勧誘や献金、会長や上司への無条件服従など、とても諸善とは言えませんが・・・。とにかくそれらと皆さんの往生とは全く無関係ですから、それだけはよく知って下さい。




【追記】
浄土門、易行道のこころにて聖道門・浄土門、難行道・易行道ということに触れています。参照して下さい。
・コメントにて指摘頂いた箇所は修正しました。ご指摘ありがとうございました。
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No title

今回のブログ真ん中付近のまとめで、先頭の十八願と十九願が反対になっています。

No title

高森会長に、浄土真宗は頓教か漸教かと問えば、頓教だと答えるでしょう。しかし、親鸞会流三願転入は、漸教(十九願)をやって頓教(十八願)に入るのだから結局のところ、漸教ってことですよね。大っぴらには漸教とは言えないので言ってませんが、実際、会員に勧めているのは漸教です。親鸞会にはこういったダブルスタンダードがよくありますね。たぶん多くの会員さんは「頓教とはおっしゃるが、これって漸教なのでは?」と内心思っています。しかし会員さんは「高森先生は信心の智慧を体得し、五十一段目の覚りの境地にあるお方」と思っているので、「我々には分からないだけで、実はこれは矛盾なく頓教なのだ」と脳内で無理矢理に落着させてしまっているのだと思います。

>広島の名無し様

親鸞聖人の教え-頓教、横超、一念の救い、真実の教え
高森会長の教え-頓教+漸教、横超+横出、一念+多念の救い、真実+方便の教え

といった感じで、親鸞聖人の教えに余計なものを混ぜているのが高森会長の教えですね。それを無理矢理脳内変換して正しい教えだと信じ込もうとしているのが会員の皆さんです。そろそろ自分に相応しない、この教えでは自分は助からないと明らかに見て教えの真偽を調べて頂きたいものです。

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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