親鸞会流「三願転入の教え」で、寝たきりの老人は救われるのか?

私事ですが、実家の祖母が寝たきりになり、ついに入院生活となるようです。以前から大分弱々しくなってしまっていましたが、既に90近い年齢ですし、心臓の病気も患っていましたので仕方がないのかなとも思います。

さて、親鸞会では「三願転入しなければ蟻一匹救われない」とやかましく言い、十九願・二十願の道程を通らなければ十八願の世界には出られないと説いてはしつこく親鸞会での聴聞、親鸞会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従を善の名の下に勧めてきます。では、そんな親鸞会の教えで、例えば今の私の祖母のような寝たきりの老人は救われるのでしょうか?
聴聞と言っても最早聴聞会場に足を運ぶことはできません。布教に来られても聞いていられる時間も聞く機会もわずかです。人に頼んで自分の財産を財施もできましょうが、それも財産を持っている人の話です。見舞いに来た人に「仏法聞いてくれ」とは伝えられても、元気な人のように声掛けやチラシ配りはできません。
とても、若い頃から熱心に親鸞会で教えを聞き、活動に勤しんできた人のようにはいきません。それでも後生の一大事助かるのでしょうか? 縁有って当記事を読まれている会員の方は、親鸞会の教えで寝たきりの老人は救われると思いますか? 翻って自分は助かると思いますか?

『観無量寿経』には、平生に悪ばかり造ってきた者が臨終に善知識に遇い、往生する様子が説かれています。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。


【現代語訳】
続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
  「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
 その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。
 以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける 」


状況としては寝たきりの老人とそう変わりありません。釈尊はこの人に何を勧められているでしょうか? 十九願の善でしょうか? 読めば分かる通り、念仏一つです。
臨終の人に今から善をやって信仰を進めよと言っても無理です。そんな最悪の状況下の人をも救う阿弥陀仏の名号を善知識はすぐさまお説きになっています。今まで数限りない悪を犯し、真実の善の積めない、悪道に堕するしかない者を必ず摂め取って決して捨てない本願の名号以外、救われる手立てはないからです。

さて、では元気な者にはどうでしょうか? 臨終の者や寝たきりの者と違って善も出来るし死までは時間があるから、親鸞会のように信仰を進めてどうのこうのという教えが必要でしょうか?
朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身であることは、蓮如上人の時代も今も変わりません。事件や事故に巻き込まれたり、突然の病気などで、ついさっきまで元気だった人が今はもう亡くなっているということは少しも珍しくありません。もしも今宵の後生を思うなら、親鸞会の教えで自分は助かりますか? このブログを始めた時からずっと、会員の皆さんに考えて頂きたい質問です。体面や体裁、今まで聞いてきたこととの兼ね合い、様々な事情があってこの質問に対峙できない方もあると思います。しかしやがて必ず対峙しなければならない問題です。今まで聞いてきたような教えで果たして自分は今日助かるのか、後悔なく後生へ旅立てるのか、よくお考え下さい。
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すり替えるでしょうね

 まあ、講師部なら、
「死にそうな人の話をしているんじゃない。お前生きてるだろ!寝たきりじゃないだろ!!カネ出せるだろ!!お誘い出来るだろ!!くぁwせdrftgyふじこlp」
と論理をすり替えてジ・エンドでしょう。

>昔の幹部様

そんな内容のことを言ってくるでしょうね。その答えで満足してしまう人は、残念ながら大分洗脳度の高い会員と言えます。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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