Q&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)の続きです。



親鸞聖人は、『教行信証信巻』や『愚禿鈔』で善導大師の至誠心釈をを独自の訓点で読まれています。
今回は『愚禿鈔』から引用します。親鸞聖人が訓点を変えられた箇所を色を変えて示します。


『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず【真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。】貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ【真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

現代語訳(『本願のこころ』(梯實圓著 法蔵館)72、73ページより)は以下の通りです。

『観経』には、一つには至誠心といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず【如来が真実心の内に成就して与えてくださったものを須る(用いる)べきことを明らかにしたいと思います。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いているからです。】凡夫は貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心をもっているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢善な人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけのいつわりの行というべきで、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩の雑じった心を起こし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏がまだ修行者として菩薩の行をなされたとき、身の行いも言葉の行いも心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、【すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、如来の行を行じ、如来によりしたがって、如来の真実を用いるということです)。およそ如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実である。】
また真実というのに二種があります。一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他の働き(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。



こうして前後も含めて拝読してみますと、至誠心をおこせといわれている意味がよく分かります。すなわち、自己には真実はないから、如来の真実心を用いるのですよと教えられているのです。真実心とは、如来より回向されるものなのです。


★Q&A(4)と(5)のまとめです。

善導大師が

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」

と教えられたのは、

「内外不一致ではいけませんよ。外に賢善精進の相を現じていても、内が虚仮ではいけませんよ。心を真実にしなさいよ」

ということです。しかし、私たちには真実心というものはありませんから、阿弥陀仏から真実心を頂きなさいよと教えられていることになるのです。

そのことを法然聖人も教えられ、親鸞聖人はさらにハッキリ教えてくだされました。

したがって、上の善導大師のお言葉を根拠にして、今の救いを求める人に対し、あたかもド真剣に善をすることが救いに関係あるかの如くに説くことは不適当であると言わざるを得ません。

(つづく)





(補足)

林遊@なんまんだぶつ様より以下のコメントを頂きました。記事と合わせて読んでいただきたいと思います。

親鸞聖人は読み替えていらっしゃるのではありません。引文してこのように読んだ方がより深く阿弥陀如来のお心が窺えるという意味で訓点を変えていらっしゃいます。
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参照用に原文を提示しておきます。

善導大師の当面読
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%94%BB%E5%83%8F:Zendou-sijyousin.jpg

親鸞聖人の訓点
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%94%BB%E5%83%8F:Syuso-sijyousinn.jpg

なお、親鸞聖人は読み替えていらっしゃるのではありません。
引文して、このように読んだ方がより深く阿弥陀如来のお心が窺えるという意味で訓点を変えていらっしゃいます。

No title

親鸞会では

  「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」

という言葉を

  「外には賢善精進の姿を示しなさい、そして内側は虚仮を抱かないようにしなさい」

みたいな読み方をしてるんでしょうね、してるからこそ
「ド真剣に善をしなさいとすすめておられる」みたいな解釈になってるんだと思いますが、
それなら外側の「ド真剣な善」と同じように内側に「虚仮を抱かない」ようにもしなきゃいけないはず。
何故そこだけはスルーするんでしょうね。
自分たちが善導大師の言葉を根拠に挙げたんだから、
「虚仮を抱かない、真実の心」で「ド真剣な善」を励まなきゃ自己矛盾でしょ
煩悩だらけで「虚仮を抱かない真実の心」なんて主張したら大笑いですが。

>林遊@なんまんだぶつ様

ご意見を受け止め、文章を一部改めました。
ご指摘有難うございます。

>名無し様

私達に真実心は起こせないからこそ、如来の真実心を用いよと親鸞聖人は仰っているのですが、親鸞会の主張は、

・私達は自惚れているから、その気になれば真実心が起こせると思っている
・では、起こせるのかどうか実地にやってみよ。やらない者にはそのどちらもハッキリしない
・「私は真実心を起こせるような者ではなかった」と自惚れ心が完全に廃った時、阿弥陀仏に任せることができる
・それが縦の線の時で、そこまでは、19願、20願を通らねば絶対に出られない

というものです。

親鸞会ドグマが浸透している人は容易にこの主張を受け入れ、真実心を起こせない自分と知らされようと親鸞会の勧める善に励みます。

一体どのように会員は教えられるのか、縦横の線がその代表ですが、まだまだ沢山ありますので順次明らかにしたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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