『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点3

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点2

の最後に書きましたが、定善十三観とは極楽の世界と無量寿仏、観世音菩薩、大勢至菩薩の御姿を思い浮かべる観法です。簡単に言えば、

1、日想観-無量寿仏のおられる西方
2、水想観-澄み渡る水
3、地想観-極楽の大地
4、宝樹観-極楽の宝の樹々
5、宝池観-極楽の池の水
6、宝楼観-極楽の楼閣
7、華座観-無量寿仏が座っている蓮の台座
8、像観-無量寿仏の像
9、真身観-無量寿仏の真の御姿と光明
10、観世音菩薩観-観世音菩薩の御姿
11、大勢至菩薩観-大勢至菩薩の御姿
12、普観-自分が極楽へ往生するさま
13、雑想観-阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が種々に変現するようす

を順々に思い描いてゆくことです。詳しくは『観無量寿経』を読んで頂ければよいのですが、難解な方には現代語 観無量寿経だけでも読んで頂きたいと思います。間違っても日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観、という行ではないことはお分かり頂けると思います。ちなみに私は会員時代、教学講義などでしきりに定散二善をやれと言われていましたが、定善がどのようなものか、それぞれの観法についてアニメに出てくる程度の説明しかなく、ただ富山へ参詣すること、高森会長の話を聞くこと、親鸞会に人を誘うこと、次々やってくる募財にお金を出すことばかり勧められていました。やれと言われるものがらについて何の説明もないことに何の疑問も抱かなかった当時の自分は本当に愚かであったと感じます。

さて、『なぜ生きる』やアニメ『王舎城の悲劇』では、第一日想観から第六宝楼観まで全て試してできなかった韋提希が深い苦悶に堕ちてゆき、第七華座観を説かれる直前に無量寿仏の御姿を拝見し、そこで信心決定したという話があります。この無量寿仏の御姿を拝見し、信心決定したということは、親鸞会で教えられている通りで、この部分は正しいです。
しかし、韋提希は前にも述べたように定善をしていませんので、定善ができなかったことによって「地獄しか行き場のない私でした」と深い苦悶に堕ちたりもしていません。親鸞会の説く二種深信の内、機の深信が「一つの善もできない極悪人と知らされること」なので、それに倣って話をしているようですが、これは全く親鸞会の創作話です。それに『観無量寿経』はこれでは終わりません。弥陀三尊を拝見した韋提希はその後次のように言います。

「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」
「世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか」

この後、韋提希の要請に応える形で第七華座観以降が説かれます。親鸞会の話ではここでハッピーエンドのような感じで終わっていますが、定善の話はまだまだ続き、その後散善の話も残っているのです。親鸞会の言っていることが正しいなら、もう善については終了でもいいようなものですが、この後も善の話は続くのです。何しろ高森会長の根拠は大沼師ですから仕方ありませんね。このようなことですから、阿弥陀仏に救われる瞬間をアニメの韋提希になぞらえ、一つの善もできない極悪人でしたと知らされ絶望して、それから阿弥陀仏の喚び声が五臓六腑を貫くみたいに思っている人は、今すぐその間違った思い込みを捨てて頂きたいと思います。

6、韋提希が獲信する直前について

「善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる」というようなことは、『観無量寿経』のどこにも説かれていない。
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善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる

親鸞会の説くところは勿論正しい箇所もありますが、肝心な部分についてはことごとくデタラメですのでご注意下さい。



※コメントにて指摘を頂き、不適切な箇所は訂正いたしました。失礼しました。
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華座観を説かれる直前にイダイケが獲信したというのは、伝統的な解釈です。以下を参照して下さい。
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-67.html?cr=64dc0e559b74bfd23b91eefd11be44bd

No title

先のコメントでは言葉が不足しているので、
「無量寿仏の御姿を拝見したこと」=「信心決定したこと」
ということについて、簡単に補足します。

『観無量寿経』の華座観に、

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。
ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、(以下略)

とあります。そして、『観無量寿経』の得益分には、

この語を説きたまふとき、韋提希、五百の侍女とともに仏の所説を聞く。時に応じてすなはち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。

と説かれています。この中の「仏身および二菩薩を見たてまつる」が、韋提希が華座観の直前で、無量寿仏の御姿を拝見したことを指しており、「無生忍を得たり」が信心獲得したことをあらわしています。

このことを、善導大師は、『散善義』の得益分を解釈されるところで、

四に「得見仏身 及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。

と教えられています。

以上、参考にして下さい。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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