『化身土文類』冒頭のお言葉より読み取れること

『真仏土文類』までで真実の教・行・信・証・真仏土を顕かにされた後、親鸞聖人は更に化身土(方便の仏と浄土)を『化身土文類』にて顕かにされました。その冒頭は以下のようになっています。

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。

【現代語訳】
つつしんで、方便の仏と浄土を顕わせば、仏は『観無量寿経』に説かれている真身観の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である。また『菩薩処胎経』などに説かれている懈慢界である。また『無量寿経』に説かれている疑城胎宮である。

『化身土文類』では今までと説かれる順序が一変し、いきなり化身土から示されています。これは、『真仏土文類』までで明らかにされた報土往生に対して、化土往生(雙樹林下往生、難思往生)という明らかな果の違いを教えられているのです。
報土と化土を比べたらその差は歴然です。『化身土文類』の要門釈では、『大無量寿経』の胎化段と『無量寿如来会』の胎化段を引文されて、胎生(化土往生)と化生(報土往生)の得失を説かれています。まず化土往生するという明らかな果の失を示すことにより、化土を誡められているのです。裏からいえば、報土往生を勧められているのです。

では、報土往生と化土往生という違いがどうして出てくるのでしょうか?

それは、報土に往生する真実の教・行・信・証があるのに対し、化土に止まる方便の教・行・信・証があるからです。因が他力回向の行信(南無阿弥陀仏)と、自力諸善・自力念仏というように異なれば、結果もそれぞれ真仏土と方便化土と異なってきます。だから、十八願の行信を得た正定聚の機と、十九願、二十願の行信に止まっている邪定聚の機、不定聚の機では結果に歴然とした差が出るのです。
『真仏土文類』までは浄土真実の教・行・信・証・真仏土が明らかにされているのに対して、『化身土文類』にはその名の通り、浄土方便の教・行・信・証・化身土が明らかにされています。そして「化身土文類」には、なぜ真実浄土ではなく方便化土に止まるのかが詳しく書かれています。つまり、方便の教・行・信・証は勧めるためではなく「誡めるために説かれた」のです。

真実の行信により、真実の証果を得る。
方便の行信により、方便の証果を得る。


これは浄土真宗では基本中の基本と言っていいでしょう。ところがこの基本中の基本を高森会長は知りません。知っているにしても会員に正確に伝える気がありません。
親鸞会では方便を「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対に必要なもの」と定義し、第十九願は方便の願だからやらなければならないと言います。第十九願を方便の願というのはその通りで、この部分は正しいです。しかし、方便の定義づけや、方便の願だからやらなければならないというのは間違いです。方便の願に示された方便の行信からは方便の証果しか得られませんから、それでは実行できたにせよ化土へ往ってしまいます。高森会長は表向きは化土往生を勧めているのです。まぁ19願の善・定散二善と言っておいて、実際は親鸞会への献金、勧誘、無条件服従が主であり、親鸞聖人の仰せを基に18願だけを勧める者を誹謗しているのですから、会員の化土往生も怪しいことは言うまでもありませんがね。
そして、ここで言われる「方便の仏と浄土」「方便の願」の「方便」とは、既に親鸞聖人によって真実の教・行・信・証・真仏土を知らされ、報土往生を願うようになった者には不必要なものであり、直ちに排捨すべきもの、ということです。「方便」と一口に言ってもその意味するところが教えを受け取る機によって、また文章によって異なるのです。もしも報土往生を願う者に絶対に必要なものであるならば、親鸞聖人はその著作の至るところに方便の行信を勧められていなければなりません。しかし、20願を勧められたお言葉が辛うじて『化身土文類』に1ヶ所だけ、19願に至っては皆無です。ただ20願も化土にとどまるためにこれを誡められており、親鸞聖人は実質は18願による真実の行信、その証果である報土往生のみを勧められています。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。『総序』

【現代語訳】
それゆえ自他不二、生死一如とさとりきわめた阿弥陀仏の無上の徳を円かに具えている名号は、人びとの煩悩悪業をそのままさとりの徳にかえていく智慧のはたらきをもっており、阿弥陀仏よりたまわった金剛堅固の信心は、私たちの疑いを除いて、さとりを完成させるはたらきをもつ真理そのものであることがわかります。こういうわけですから、浄土真宗は、下劣な凡夫も行いやすい真実の教法であり、どのような愚かなものも易く、しかも速やかに往生することのできる成仏の近道です。釈尊がその一代に説かれたさまざまな教えのなかで、この海のような広大無辺な徳をもつ本願の教法に勝るものはありません。煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

親鸞聖人の本当の教えを知りたい、報土往生したい、このように思う方は、親鸞聖人のお言葉を拠り所とし、それに順って18願真実の教えのみを聞き求めるべきでしょう。親鸞会批判者の求める根拠を出さず、はぐらかして質問を連発しているようなら、そういう人は決して自分達のことを親鸞学徒などと呼ばないことです。その結果自分達の浄土真宗に対する無知をさらけ出し、教義の誤りが一層明らかになって、会への信用がなくなり、退会者が後を絶たなくなるのはまさしく自因自果。「因果は厳しく、結果を招く」とか何とか、本人達が言っている通りです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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