『聖道門の修行に行き詰まった人に』定散二善を説かれた

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義4

などにあるように、『観無量寿経』と『阿弥陀経』には隠顕の二面があると親鸞聖人は教えられています。隠顕とは隠彰(真実)と顕説(方便)のことで、表面に顕著に説かれている教義のことを顕説といい、顕著ではないがひそかに底に流れている真実の教義のことを隠彰といいます。親鸞聖人は『化身土文類』三経隠顕問答 隠顕釈にて、まず『観無量寿経』の顕説(顕の義)と隠彰(隠彰の義)をそれぞれ明らかにされています。

問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。 すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
(中略)
まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。


【現代語訳】
問うていう。『無量寿経』に説かれている至心・信楽・欲生の三心と『観無量寿経』に説かれている至誠心・深信・回向発願心の三心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。
(中略)
これによって、まことに知ることができた、すなわち『観無量寿経』には顕彰隠密の義があることを。『無量寿経』の三心と『観無量寿経』の三心とが同じであるか異なるかを述べるにあたっては、よくこのことを考えなければならない。この二つの経は顕の義によれば異なるが、彰の義によれば同じである。よく知るがよい。


このことから、『観経』の顕説として説かれた定散二善は浄土に生まれるまことの因ではなく、弘願(十八願)とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善であることが判ります。さて、ここで『誰に浄土往生を願わせるためか』というのが重要です。ここを間違って教えられているので親鸞会会員は高森会長の邪義を邪義と見抜けず、いつまでも往生・獲信とは無関係の活動に従事し、組織拡大要員としてのみの人生を送るはめになってしまうのです。
『化身土文類』要門釈のお言葉よりで示したように、十九願は聖道門の修行に行き詰まった人のために建てられたものです。ですから、当然『誰に』とは、『聖道門の修行に行き詰まった人に』となります。既に親鸞聖人から教えを頂き、浄土往生を願うようになった者に、更に浄土往生を願わせるために定散二善をやらせるなどということはあり得ません。「十八願の救いを求めて十九願の善を修めよ、定散二善を修めよ」と親鸞聖人が仰った根拠がただの一つもないからです。
にも関わらず、そのあり得ない解釈をしている人物がいるのです。この『観経』顕説に腰を据えて、「十八願の救いを求めて十九願の善を修めよ、定散二善を修めよ」と教える自称善知識が。こんな知識の教えを受ける者は、すぐさま選択の願海に転入できるものを、邪義に阻まれていつまでも求道ごっこを続けなければなりません。ところが邪義を真実だと盲信していますので、こちらの話に耳を傾けようともせず、逆に親鸞聖人の教え通りに十八願一つ教え勧める者を誹謗する有り様です。これで自分達のことを『親鸞学徒』などと言っているのですから、お笑い以外の何物でもありません。早く邪義を邪義と正見して頂きたいばかりです。

さて、一方『観経』の隠彰の義として示されているのが如来の弘願、つまり十八願であり、全ての者が等しく往生する他力の一心(信心)であります。ですから、親鸞聖人の教えを聞く者は、如来の弘願、すなわち第十八願一つを聞き、他力の一心を獲、念仏を申せばよいのです。「助けるぞよ」との阿弥陀仏の仰せを、仰せのままにそのまま真受けにし、お念仏申すのみです。往生・獲信のためにはこれだけです。
顕の義として説かれている三心は『大経』の三心とは異なるのですから直ちにこれを排捨し、彰の義として説かれている三心は『大経』の三心と一致するのですから直ちにこれを選択するのです。すなわち、顕説として説かれている定散二善は我々には捨てものですから直ちに捨てて、隠彰の義として示された十八願一つを聞く。いつまでも生きていられるならともかく、今宵の後生とも知れぬ我々には、如来の異の方便に関わっている暇はありません。既に浄土往生したいと願っているのなら、欣慕浄土の善根は不要です。親鸞会の会員は、十八願を前に大きな扉で閉ざされてしまっている状態です。高森信心ある限り、その扉は開きません。ただ、この扉は邪義から解放された者なら容易に開くことができます。何とか命のある間に邪義を邪義と見抜き、本願を信じ念仏して下さることを願います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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