どうして親鸞会は表立って念仏を勧めないのか

私が会員だった時から、親鸞会の会合では兎にも角にも金集め、人集めでした。後生の一大事(必堕無間)を強調して恐怖を煽り、高森会長の苦労話を時にはビデオを使って何度も何度も聞かせ、「信後の人の真似でもせよ」「破邪顕正は最高の宿善だ」「長者の万灯より貧者の一灯」「その時その時精一杯の財施をさせて頂くのがよい」などと言って、最後にはしぶしぶ顕正目標人数を書かされたり、募財の用紙を配られ財施額を記入させられたりしていました。これが幹部会合になればより一層きつく責め立てられ、前に立たされて指摘を受け、反省の弁を述べ、更なる活動と成果の実現を約束させられました。最近ABCマートが違法長時間労働で書類送検されたなんて事件もありましたが、親鸞会はそれをはるかに凌駕するブラックな団体でしたし、現在は会員の流出を食い止めるため、またその分を埋めるためにもっと大変かも知れません。今思い出すともううんざりです。私は運よく抜け出せて本当によかったです。

さて、そうやって「善の勧め」を強調し、「善の勧め」の名の下に金集め人集めを要求してくる親鸞会ですが、ふと振り返ってみると「念仏の勧め」というのはほとんど聞いた記憶がありません。選択本願の行、浄土真実の行は念仏一行であるというのに、記憶にあるのは「善の勧め」ばかりです。どうして親鸞会は表立って念仏を勧めないのか、いくつか理由を考えてみました。

まずは本願寺との教義・説法の比較が挙げられると思います。
親鸞会では、本願寺は「念仏さえ称えたら死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いていると非難しています。それに対して親鸞会は信心正因称名報恩を打ち出して、信心獲得しなければ死んで極楽には往けないと教えています。一体本願寺のどの布教使がこのような説法をしているのか皆さんにお伺いしたいところですが、それはひとまず置いといて、本願寺と親鸞会ではこのように教えが違い、親鸞会の説くところが正しいと主張したいがために、信心を強調し、その引き換えと言いますか、念仏を表立って勧めないと考えられます。

次に、先程述べた際に出てきた「信心正因称名報恩」が行き過ぎて、高森会長は信心を強調するあまりに「称名は信後報恩に限る」と念仏を軽視していることが考えられます。試しに高森会長の教えだけを日々受けている会員の皆さんが、「念仏の勧め」と聞いたら何を思い浮かべるでしょうか? 過去の私がそうだったというだけで違っていたらすみませんが、おそらく、称名正因の異安心を想像し毛嫌いすることと思います。それ位「信心正因称名報恩」が行き過ぎているということです。

それから、これが理由のほとんどだと思いますが、「念仏の勧め」では組織拡大は望めないということです。会員に金集め・人集めを促す大義名分として「念仏の勧め」は合いません。やはりそれは「善の勧め」以外ないですね。金集めを財施、人集めを顕正、ひっくるめて「善」と呼んで、やらなければ横の道は進めないとか、善をしなければ信仰は進みませんなどと説けば、後生の一大事助かりたい会員はより一層活動に取り組むでしょう。それが高森会長の思う壺なのです。

このように言えば会員はK講師長か誰かの受け売りで「下種の勘繰りだ」などと不快感を露にするでしょう。しかし、親鸞聖人が勧めていない19願・定散二善の勧めを筆頭に、高森会長の主張の多くが親鸞聖人の仰せと異なる以上、高森会長は親鸞聖人の教えを正確に伝える気はまるで無く、その目的は会員の往生・獲信以外にあると考えて間違いありません。『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長5にあるように、主要教義がこんなにも違うのですから。
また、「親鸞会では念仏を勧めている」などと反論する会員もいるかも知れません。ところが、親鸞会では実態が善もどきの善ということを抜きにしても、勧めているのは諸善と念仏の兼行です。親鸞聖人は念仏一行を一向に修することをお勧めになりました。勿論その念仏とは本願を信じ念仏する18願他力の念仏です。どうせならこれを機会に親鸞聖人の仰せ通り、諸善は捨てて念仏一行を一向に修する行者となって頂きたいものです。
そして、信心と念仏、この二つは切り離すことはできません。真宗の信心とは、念仏(南無阿弥陀仏)を疑いなく受容したことであって、驚天動地の体験のことではありません。驚天動地の体験が信心で、お礼が念仏みたいに思っている人は、今すぐその考えを改めて下さい。信心といっても念仏(南無阿弥陀仏)の他にはないのだということを知って下さい。
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No title

「信後の人(親鸞聖人)のまねでもせよ」と教えながら、一方で、アニメのいたるところに念仏を称えておられる姿を見ても称えない現実と、どう結びつけるのか。

No title

会員ではない一般の人から聞いた話ですが、その人が勉強会で講師に「19願の話はよく聞くけれど、20願はどういうものですか?」と質問したそうです。
講師の答えは「20願に入ったらあとは自然に18願に入りますから、とにかく19願で勧められている善をすればいいのですよ」という、何とも呆れたものだったそうです。

ちなみにその人は講師から執拗に入会を勧められ、「今は家の事情で入会できないので、(高森会長の)本を読んで勉強を続けます」と入会を断ったところ、「もう勉強会に来ないでください。本を読んでも救われませんよ」と言われ、それ以来、会とは縁を切ったそうです。

No title

どうして親鸞会は表立って念仏を勧めないのか

唯信独達の教えだからです。

念仏はお礼

念仏勧められるけど信心の上念仏です。

しっかり聞いてないから親鸞会を非難する事しか知らない

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上の名無し様

念仏は信後のお礼とか、信仰が進むと称えずにおれなくなるとか教えられているので、今はそんなに称える気にならないのかもしれません。


ブルームーン様

その講師部員は入会目標人数がありますから焦っていたのでしょうね。それにしても「(高森会長の)本を読んでも救われませんよ」とは凄いことを言ったものです。親鸞会で言う謗法罪にならないのでしょうか?


後の名無し様

唯信独達の「信」とは分かりやすく言えば「念仏(南無阿弥陀仏)一つで助かる」という信心です。記事で書いたように信心と念仏は切り離すことはできません。信心決定とは驚天動地の体験だろうと想像し、念仏はあくまで信後のお礼で、まずは19願などと思っている限りは、称名する気も起きないかも知れません。

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>秘密コメント様

有難うございます。

自己の真実が見えるかどうかは別として、会員はもっと真剣に廃悪修善に力を尽くすべきというお考えはご尤もです。ただ、善悪の価値判断が一般とは相当ずれてしまっているので、まずはそのずれを認識し修正するところから始めなければならないと思います。

念仏を勧めないのは大問題です。それでは真宗でも浄土門でもありません。

No title

念仏勧めてるし・・・

No title

上の名無し様

念仏は信後のお礼とか、信仰が進むと称えずにおれなくなるとか教えられているので、今はそんなに称える気にならないのかもしれません。

私、念仏者ですが・・勝手に誤解されても^^かもしれませんって^^想像膨らまして^^面白い^^
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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