少なくとも親鸞聖人を世界の光と慕う者ならば、十八願一つを教え勧めなければそれは嘘というものです

第十九願の法門のことを要門とか、浄土の要門と呼ばれていることは既に皆さんご承知の通りです。ただそれは、親鸞会で教えられるように、第十八願の往生(救い)を求める人にとって重要な門、必要な門、絶対通らなければならないかなめの門、という意味ではありません。「釈尊の教導によって九十五種の邪道を出て聖道門に入ったが、悟りを開けずに苛烈な修行に堪えかね、また自身の煩悩罪悪の深さに打ちひしがれて行き詰まって悩む人に、浄土門へと引き入れるために重要な教え、かなめとなる教え」ということで要門、浄土の要門と言われるのです。
釈尊は様々な機にそれぞれ最も相応しい教えを説いていかれましたから、八万四千の法門という膨大な数の教えとなったわけですが、一人一人機が異なりますから、その人には必要な教導でも別の人にとっては不必要な教導もあるのです。例えば親鸞会でもよく出てくるキサーゴータミーの話ですが、人は一度死ねば二度と生き返らないという無常の理を彼女は知りません(あるいは受け容れられません)でしたから、釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと告げられたのです。しかし、一部の人にとっては必要でも、全ての人にとってこの釈尊の教導が必要なわけではないことはお分かりかと思います。それと同じで、仏様が衆生を調機誘引されていく中で聖道門の教えが必要な人には聖道門を、第十九願諸行往生の教えが必要な人には十九願の法門を、第二十願自力念仏往生の教えが必要な人には二十願の法門を説き与えられたということです。仏様自らの意に随って直ちに第十八願他力念仏往生の法門を説き与えても、受けつけないばかりか、かえって誹謗する者がありますから、衆生の意に随って暫く仮に設けられた教え(八万四千の法門)を説く必要があったのです。

そのことを知らない、あるいは知っていても敢えて騙している高森会長は、全ての人がまず十九願から始めなければ十八願の世界に入れないと教えていますが、上述の通りですから、対機説法、応病与薬とは言っていてもその意味するところをまるで理解していない、理解していても正しく伝えようという気が全くないということが分かります。聖道門の教えが必要な人には聖道門を、十九願の教えが必要な人には十九願を、二十願の教えが必要な人には二十願を勧めなければなりませんが、どういう仏様のお育てか、始めから仏様自らの意に随って建てられた十八願の教えを受け取ることのできる人もあるのです。私のような凡愚にはどういう人がどの法門が必要なのかということは分かりませんが、親鸞聖人は二十願の教えすら厳しく誡められて十八願による他力念仏往生一つを教え勧めてゆかれました。なので、少なくとも親鸞聖人を世界の光と慕う者ならば、十八願一つを教え勧めなければそれは嘘というものです。
何度も申し上げておりますが、十八願の世界に入るのに絶対に十九願の教えが必要なら、親鸞聖人は十九願の行信を至る箇所で勧めておられるはずです。しかしそのような箇所は一つも見当たりません。不必要だから勧められていないのです。至極簡単な話です。それに、やりなさいと勧める行を「修めることができない」と言う先生は普通考えられません。親鸞聖人は親鸞会で勧める定散二善をどう言われているか、次の御文をご覧下さい。

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分 三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。 『化身土文類』門余釈
善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

善導大師や懐感禅師、法照禅師、また智覚禅師のような優れた方々にはできても、末法に生きる我々のような愚かな凡夫には定善散善の行を修めることができないと教えられています。勿論できると思う人は挑戦されたらよろしいかと思いますが、少なくとも高森会長の何時間かの話の最中に眠気を催したり、親鸞会の活動や日々の生活の中で様々な煩悩が渦巻いてばかりという人には到底無理でしょう。この世でさとりを開こうとするか、浄土に生まれようとするかの違いだけで、元々は聖道行なのですから、優れた素質のある人しか定散二善は行ずることはできません。
親鸞聖人は八万四千の仮門を差し置き、本願一乗海すなわち第十八願のみを私達にお勧め下さっています。もうこれ以上やらなくても、六度万行はおろか、定散二善の中の世福すらまともに行ずることのできない自分であると気付いている会員さんばかりかと思います。何も会員さんだけではありませんが、煩悩渦巻いてどうすることもできない罪業を抱えた私達をそのまんま摂め取って決して捨てない、世を超えた阿弥陀仏の大願業力に只今救われ念仏して頂きたいばかりです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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