「欣慕浄土の善根」「回心回向の善」「欣慕の釈」

これまで何回かに分けて、第十九願について親鸞聖人はどう教えられているかを『化身土文類』から見てまいりました。

釈尊の教えにより、ようやく九十五種のよこしまな教え(外道)から仏教の様々な法門(聖道門)に入っても、さとりを得る者は極めて少なく、虚偽の者がはなはだ多かったのでした。そのような人々のために、釈尊はさまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説かれたのですが、それは元々阿弥陀仏が慈悲の心から誓願(第十九願)を発して下さっていたからです。

この第十九願の心を明らかにされたのが『観無量寿経』ですが、では『観無量寿経』に説かれている三心(至誠心・深心・回向発願心)と『大無量寿経』に説かれている三心(至心・信楽・欲生我国)は同じなのか異なるのか、という問答がなされます。善導大師は『観経』の三心を具する者は必ず往生するが、その内一つでも欠けたら往生できないと仰いました。その『観経』の三心と、これまで『信文類』で明らかにした真実信心(『大経』の三心)は同じなのか異なるのか、という問答です。それについて聖人は、顕説(経の表面に顕著に説かれている教義)と隠彰(表面に顕著ではないが経の底に隠微にあらわされている真実義)があると仰っています。

まず顕説(顕の義)とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示しています。次に隠彰(彰の義)とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしています。その内、定散二善をあらわした顕の義によれば、至誠心・深心・回向発願心は至心・信楽・欲生とは異なる自力の信心、弘願をあらわした彰の義によれば、至誠心・深心・回向発願心は至心・信楽・欲生と一致する他力の信心であるというのです。

定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではありません。三輩のそれぞれがおこす三心(至誠心・深心・回向発願心)は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではありません。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善なのです。これが

如来の異の方便、欣慕浄土の善根

ということです。この世でさとりを開こうと願っていた聖道門の人へ、弘願(十八願)への橋渡しとして浄土往生を願わせるため、釈尊は要門を開かれたのです。いきなり自力修行の人に本願力回向の教えを説いても、そう簡単に受け容れられる人はありません。自力聖道の厳しい修行に何十年と打ち込んでも一向にさとりが得られない人にとってみれば、我々の善悪は関係なくただ「助けるぞ」の仰せをまことと受け容れ念仏すれば往生できるなど、いくら何でも教義に飛躍がありすぎます。それが真実の仏意、どころか悪人を導くための方便の教えであるとしか捉えられないでしょう。実際、

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。(『興福寺奏状』)

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。(『摧邪輪』)


などと聖道諸宗から法然聖人に対して非難が上がっています(『なぜ生きる2』のトンデモ邪義20参照)。

そこで、行自体は今までの聖道門と同じだが、心をこの世でのさとりではなく浄土に振り向けて往生を目指すという要門の教えを置く必要があったのです。この「心を浄土に振り向けて」というのが「欣慕浄土」ということです。これは勿論、まだ浄土を願ったことのない聖道門の人に浄土往生を願わせるということであって、既に浄土往生を願っている浄土門の人に更に浄土往生を願わせるということではありません。それはこれまで『化身土文類』を、まともな読解力のある人が読んでくれば分かることです。要門とは聖道門から浄土門へ渡すのに必要な教え、かなめとなる教え、ということで、浄土門の人が弘願へ入るのに必要な教え、かなめとなる教え、ということではありません。であるが故に、

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。(中略)雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。


等々、「定散二善は報土往生のまことの因ではない」「我々は定散二善を修めることができない」「雑行である定散二善は元々我々が往生する因ではない」と言葉を重ねて仰っているのです。既に十八願によって救われようとしている人に定散二善が必要なら、至る箇所で親鸞聖人は勧めておられるはずですが、不必要ですから勧められた箇所が一つもないのです。また、今出てきた「回心回向の善」というのも先ほどの「欣慕浄土の善根」と同じです。雑行は元来聖道門の行で往生行ではないから、浄土願生の心をおこし、往生行となるようにと回向しなければならない善であるというので「回心回向の善」と言われています。

さて、『観経』顕の義として最後に述べられているのが以下のお言葉です。定散二善等の雑行、その元となっている阿弥陀仏の第十九願について親鸞聖人は、

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。『化身土文類』雑行釈
(祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。)

と仰せです。ここに出てくる「欣慕の釈」というのも「欣慕浄土の善根」「回心回向の善」と同様、浄土を慕い願わせるための方便の教えということで、繰り返しになりますがまだ浄土を願ったことのない聖道門の人に浄土往生を願わせるということです。そのような意味において、

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。

と仰っているのです。以前にこのお言葉と、真門決釈

果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

のお言葉だけ挙げて我々に十九願が必要であるかのように装った偽装本願寺の僧侶がおりましたが、そんなヘンテコ解釈をしているのは自称を含め真宗内では高森会長始め親鸞会の人間位のものです。定散二善等の雑行は、

・元々は聖道門で教えられる自力の行である。
・それを浄土往生を願って修めるから浄土の雑行と言われる。
・これは辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因である。
・阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはない。


と仰せであることを隠ぺい・無視しなければ吐けない妄言です。更には第十九願を

仮令の誓願

と言われていることもポイントでしょう。「仮令」ということについて覚如上人は、

されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり。「仮令」の二字をばたとひとよむべきなり。たとひといふは、あらましなり。非本願たる諸行を修して往生を係求する行人をも、仏の大慈大悲御覧じはなたずして、修諸功徳のなかの称名を、よ〔り〕どころとして現じつべくは、その人のまへに現ぜんとなり。不定のあひだ、「仮令」の二字をおかる。もしさもありぬべくはといへるこころなり。まづ不定の失のなかに、大段自力のくはだて、本願にそむき仏智に違すべし。自力のくはだてといふは、われとはからふところをきらふなり。つぎにはまた、さきにいふところのあまたの業因身にそなへんこと、かたかるべからず。他力の仏智をこそ「諸邪業繋無能碍者」(定善義)とみえたれば、さまたぐるものもなけれ。われとはからふ往生をば、凡夫自力の迷心なれば、過去の業因身にそなへたらば、あに自力の往生を障碍せざらんや。『口伝鈔』一念と多念

と仰っています。第十九願に自力の行者の臨終来迎を誓われる場合には、

寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲続してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。

といい、その実現が不確かであることを表す「たとい(仮令)」という言葉が加えられているといわれています。ですから先ほどの雑行についての項目に、

・臨終来迎をたのむ行であり、しかも来迎の実現は不確かである。

ということも付け加わるかと思います。そのような雑行を「捨てよ」とこそ言われ、「やれ」と命じられた善知識はおられません。蓮如上人以来の自称善知識位のものです。

平生業成、現生不退、不体失往生という言葉を出して高森会長が話をする場面もかつてありました。しかし十九願は臨終業成、体失往生を誓われた願でありますから、十八願とはその意味で相対する願であります。その十九願、定散二善を根拠に雑行を勧める親鸞会は、真宗でも何でもない単なる一新興宗教であるとお分かり頂けると思います。掲げる看板と説かれる中身がこのようにチグハグであり、求めているはずの平生業成、現生不退、不体失往生という教えではないことに、親鸞会会員の皆さんは早く気がついて下さい。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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