二十願の行者は往生に関して”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と考えている人

『化身土文類』雑行釈までで見てきたことをおさらいしますと、

・『化身土文類』とは、方便の仏と浄土を顕かにされた文類。なぜ真実報土ではなく方便化土に留まるかが教えられている。

・九十五種の外道から聖道門に入ったが、修行に行き詰まって悩む人に釈尊は様々な善を修めて浄土に往生する教えを説かれ、阿弥陀仏はその元となる誓願(第十九願)を発された。

・第十八願は別願の中の別願であり、親鸞聖人は極重の悪人に定散諸機の善人も加えられて「ただ弥陀を称せよ」とお勧めになっている。親鸞聖人のお勧めに従うなら、我々も十九願、定散二善を捨てて「ただ弥陀を称」するのみ。

・『観無量寿経』には顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであるが、定散二善は報土に生まれるまことの因ではなく、それを修める心は自力の信心であり他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、(聖道門の人に)浄土往生を願わせるために示された善である。

・第十九願の行(修諸功徳の善)と信(至心・発願・欲生)とをよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕された。「方便権仮」とあるように、第十九願も聖道門と同様、第十八願の前では廃されるべき仮の教えである。

・優れた資質のある者なら行を修めて迷いを離れることができるが、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな我々には、定善散善の行を修めることができない。

・正・助の行以外をすべて雑行という。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

・定善散善等、第十九願の善はみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因である。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはない。

・釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは(聖道門の人に)浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈された点を、親鸞聖人は「第十九願を方便の願とするのは、まことに意義深い」と仰っている。


というようなことが教えられています。定散二善、第十九願の善は方便化土へ往生する行であり、往生が決まるのは臨終、しかも阿弥陀仏の来迎がなければ往生できません。それで第十九願を「臨終現前の願」とか、「仮令の誓願」と言われているのです。既に十八願弘願による平生業成、報土往生を願う私達が、臨終業成、化土往生を誓われた第十九願を通らねばならないわけではありません。親鸞会会員の皆さんは、報土往生とは無関係なことを教えられているといい加減に気が付かなければなりません。度重なる親鸞会批判に目を背け、耳を塞ぎ、「批判者の言うことなど聞くもんか」「所詮は求道の敗残者の負け惜しみだ」「それでも高森先生が正しい」と意固地になる気持ちも分かりますが、このままでは親鸞会に都合よく利用されるだけです。後生を人質にとり、親鸞聖人の名を語って会員を邪義で染め続ける高森会長始め上層部は本当に許せません。


さて、続けて三経融会問答では今度は『大無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と、『阿弥陀経』に説かれる一心が同じなのか異なるのかという問答がなされています。それに対して親鸞聖人は、『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると教えられています。

また問ふ。『大本』(大経)と『観経』の三心と、『小本』(小経)の一心と、一異いかんぞや。
答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。[二十願なり]機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。
『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。


【現代語訳】
また問うていう。『無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と『阿弥陀経』に説かれる一心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。いま方便真門の誓願についてみると、これに行と信とがある。また真実と方便とがある。その願とは植諸徳本の願(第二十願)である。その行には二通りの名がある。一つには善本であり、二つには徳本である。その信とは至心・回向・欲生の心である。この心を修めるものに、定心のものと散心のものとがある。そして往生とは、難思往生であり、その仏とは化身であり、その浄土とは疑城胎宮である。
『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。


そして、『観無量寿経』顕説(顕の義)が第十九願要門の教え、『観無量寿経』隠彰(彰の義)が第十八願弘願であったように、『阿弥陀経』顕説(顕の義)が第二十願真門の教え、『阿弥陀経』隠彰(彰の義)が第十八願弘願を顕していると言われています。親鸞聖人のお言葉を見てみましょう。

顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。 これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。
彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。


【現代語訳】
その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。


ここで、念仏以外の善を捨てて、自力の信心で念仏一行に励むのが二十願の行者です。親鸞会理論で言えば、二十願の行者は無仏無法の人より、更には十九願の行者より信仰が進んでいる人です。しかし『なぜ生きる2』のトンデモ邪義21にあるように、高森会長はなぜかその二十願の行者を

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

と無仏無法の人よりも下に見ています。会員の皆さんはよく分からないかも知れませんが、矛盾もいいところなのです。往生・獲信に関してと日常生活に関してをごちゃ混ぜにして、さも十八願の救いに遇うのに悪を慎み善に励む必要があるかのように刷り込む、親鸞会の悪質な教義的指導が垣間見えます。

浄土真宗とは浄土に往生する真実の教えなのですから、浄土真宗を聞く目的は「浄土往生」以外ありません。その目的たる浄土往生に関して

無仏無法の人-そもそも浄土往生しようという気がない。
十九願の行者-念仏と念仏以外の善の区別なく、自力の信心で様々な善(念仏を含む)に励む。
二十願の行者-念仏以外の善はわずかな功徳と退け、自力の信心で念仏一行に励む。


という違いがあり、高森流に言えば二十願の行者は往生に関して”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と考えている人のことです。親鸞会流三願転入の教えで言えば、十九願を通過して二十願に到達した、獲信まであとちょっとの人だと絶賛されていい人です。それを十九願の行者はおろか、無仏無法の人より劣っていると非難しているのですから、矛盾も甚だしいのです。既に高森信心の抜けた人にはうざい説明でしたが、お分かり頂けましたでしょうか?

『飛雲』で言われているように、20願について、自力の念仏について何も知らない高森会長が、三願転入についてとやかく言える立場にないのです。高森会長が執拗に三願転入を、中でも十九願を説く理由は、善(献金、勧誘、無条件服従)の勧めを正当化するためです。勿論これは会員の皆さんの獲信・往生とは無関係であり、本人及び一部の人間の私利私欲を満たすためです。


いつの間にやら今年の親鸞会の報恩講は終わっていたようですが、「怒濤の十年」とは「怒濤のお布施」「怒濤の建築」「怒濤の参詣者減」であり、さすがにこれはおかしいと調べ、何十年来の会員が次々辞めていっています(親鸞会報恩講「二千畳10周年」に参加された人から聞いて思ったこと。「怒濤の十年二千畳」何が怒濤だったのか?参照)。会員の皆さん、一縷の望みをかけてしがみついていても、高森会長は何もしてくれませんよ。講師部員や先輩に悩みを打ち明けても、結局は聞き方が悪い、求め方が甘い、もっと性根を入れて求道せよ、ということで終了です。そんなこと相手の言葉を待つまでもなく分かっている会員さんばかりでしょう。私もそうでした。それで6年前の今頃、不安はあったものの教義がおかしいということで退会したのです。未だに残って活動しているかつての仲間たちを思うとやるせない気持ちになりますが、みんな何とか教義の誤りに気が付いてほしいと願うばかりです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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