まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。

一度は真門(第二十願)に入れと仰った親鸞聖人ですが、行は選択本願の名号であっても、それを称える者が自力の心であれば他力の信心を獲ることはできないと教えられています。


まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。(真門決釈

【現代語訳】
いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』に、「自力のものは仏の恩に報いる思いがなく、行を修めてもおごり高ぶる心がおきる。それは、いつも名誉や利益を求めているからであり、<わたしが>というとらわれの心におおわれて、同じ念仏の行者や善知識に親しみ近づくことがないからであり、好んでさまざまな悪に近づき、自分および他人が本願の名号をいただいて浄土に往生する道をさまたげるからである」といわれている。



ここで、かつて親鸞会でも有名だった雑修の十三失の一部が引文されています。善導大師の『往生礼讃』専雑得失(雑行の十三失)にあるお言葉です。親鸞会発行『会報』等にも出てきますが、近年はすっかりご無沙汰と思います。以下にその御文を抜き出してみます(数字は自分)。


もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり。

もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。なにをもつてのゆゑに。

すなはち①雑縁乱動するによりて正念を失するがゆゑに、
②仏の本願と相応せざるがゆゑに、
③教と相違せるがゆゑに、
④仏語に順ぜざるがゆゑに、
⑤係念相続せざるがゆゑに、
⑥憶想間断するがゆゑに、
⑦回願慇重真実ならざるがゆゑに、
⑧貪・瞋・諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、
⑨慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑなり。
懺悔に三品あり。
一には要、二には略、三には広なり。下につぶさに説くがごとし。意に随ひて用ゐるにみな得たり。

また⑩相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、
⑪心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、
⑫人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、
⑬楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。



これは称名念仏を専修する者と雑修の者について十三点の違いを教えられたものですから、これについて書かれた高僧和讃

利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆゑに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし


のお言葉を無理やり三願転入に結びつけるのは間違っています。善導大師は三願転入について全く仰っていません。あくまでここは十八願と、十八願を教え勧める釈尊と諸仏の言葉ということですから、願が十八願で教が十九願、仏語が二十願とする高森会長の定義づけには無理があります。原文と比較して、現在の親鸞会の教えが如何に浄土真宗とは異なるものかということが分かる一つのいい例です。

さて、続けて親鸞聖人は名号を自分の善根功徳として称える自力念仏の者は信心獲得し、報土往生することはできないと仰っています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

【現代語訳】
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

南無(我に任せよ)阿弥陀仏(必ず救う)の仰せをそのままお受けし、自力の計らいなく称える他力念仏の行者は報土往生を遂げるが、名号を自分の善根とし、称えた功徳によって往生しようという自力念仏の者は無間地獄に堕ちる、のではありません。最近になって親鸞会ではまた「一切衆生必堕無間」を復活させたそうですが、真門釈の経文証の中に

またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。

とあるように、かの宮殿、すなわち方便化土に生まれると教えられています。ここでも親鸞会の主張が親鸞聖人の仰せとは異なることが分かります。そして、親鸞聖人は報土往生できずに方便化土へとどまる自力念仏の者を誡められており、その一部を著されたのが『正像末和讃』誡疑讃

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり


のお言葉です。ところが親鸞会ではこの和讃の意味を、

まだ貴方は、阿弥陀仏の本願を疑って[如来の諸智を疑惑して]大信海に入れず、出世の本懐を遂げてはいないがそれでも、聞ける人の滅多にない三世十方を貫く"善因善果・悪因悪果・自因自果"の因果の道理を知らされて、悪因を怖れ善因を求める[罪福ふかく信ぜしめ]身となって、光に向う輝ける人ではないか。
そのうえ大宇宙の総ての宝が納まる無上の功徳である、南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にさせて貰っているのだ。なんと素晴らしいことだろう。


などと真逆の意味に解釈し、親鸞会流三願転入の教えを正当化する根拠として利用しているのです(『親鸞会公式ホームページ』「雑行捨てよ」と「修善の勧め」参照)。

高森会長は親鸞聖人や善知識方の一部を抜き出し、別の意味に変えて親鸞会教義に都合のように利用する偽の善知識、虚の善知識であることがここでもお分かり頂けると思います。自分の後生をあずけるに足る人物なのかどうか、会員の皆さんにはよくよく考えて頂きたいものです。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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