【まとめ】親鸞会流三願転入の教えに関して

これまで15回に分けて、『化身土文類』のお言葉を挙げながら『親鸞会流三願転入の教え』について検証してきました。

「化身土文類」及び「三願転入の御文」の位置づけ
『化身土文類』冒頭のお言葉より読み取れること
『化身土文類』要門釈のお言葉より
『聖道門の修行に行き詰まった人に』定散二善を説かれた
聖道門と同様に、第十九願は権仮方便の教え
少なくとも親鸞聖人を世界の光と慕う者ならば、十八願一つを教え勧めなければそれは嘘というものです
教えが真宗ではないのですから、十九願や定散二善を根拠として善を勧められる会員の皆さんがいつまでも助かるわけがありません
雑行を避けているつもりで、実は雑行をやりまくりなのが親鸞会会員
「欣慕浄土の善根」「回心回向の善」「欣慕の釈」
二十願の行者は往生に関して”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と考えている人
ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。
自余の衆行、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比挍にあらざるなり。
まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
三願転入の御文


これまでを簡単に振り返り、まとめたものを以下に示します。

・『化身土文類』とは、方便の仏と浄土を顕かにされた文類。なぜ真実報土ではなく方便化土に留まるかが教えられている。

・九十五種の外道から聖道門に入ったが、修行に行き詰まって悩む人に釈尊は様々な善を修めて浄土に往生する教えを説かれ、阿弥陀仏はその元となる誓願(第十九願)を発された。

・第十八願は別願の中の別願であり、親鸞聖人は極重の悪人に定散諸機の善人も加えられて「ただ弥陀を称せよ」とお勧めになっている。親鸞聖人のお勧めに従うなら、我々も十九願、定散二善を捨てて「ただ弥陀を称」するのみ。

・『観無量寿経』には顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであるが、定散二善は報土に生まれるまことの因ではなく、それを修める心は自力の信心であり他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、(聖道門の人に)浄土往生を願わせるために示された善である。

・第十九願の行(修諸功徳の善)と信(至心・発願・欲生)とをよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕された。「方便権仮」とあるように、第十九願も聖道門と同様、第十八願の前では廃されるべき仮の教えである。

・優れた資質のある者なら行を修めて迷いを離れることができるが、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな我々には、定善散善の行を修めることができない。

・正・助の行以外をすべて雑行という。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

・定善散善等、第十九願の善はみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因である。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはない。

・釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは(聖道門の人に)浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈された点を、親鸞聖人は「第十九願を方便の願とするのは、まことに意義深い」と仰っている。

・『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義がある。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門(第二十願)を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。対してその彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法(第十八願)を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。

・二十願の行者とは、念仏以外の善はわずかな功徳と退け、自力の信心で念仏一行に励む者。往生に関しては”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と考えている人のこと。親鸞会流三願転入の教えで言えば、十九願を通過して二十願に到達した、獲信まであとちょっとの人だと絶賛されていい人。そんな人をなぜか、親鸞会は十九願の行者はおろか、無仏無法の人より劣っていると非難している。

・すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入る因とする。

・七高僧方が説き示されたのは、真宗念仏、他力念仏であって、親鸞会で説かれるような三願転入の教え、まず第十九願から始めよという教えではない。

・一方的な阿弥陀仏の本願のおはたらきによるので、真実の浄土に往生することは容易い。しかし、それは一切の自力を交えず、ひとえに仏様のお力によるため、衆生は逆に疑って信心の大海に入ることが難しい。決して、「なかなか三願転入の教えに従って横の線の道を進めず、縦の線に辿り着けないから」などというたわけた理由ではない。逆に、そのような考えで他力の救いをつかもうというのを「自力を交えている」「仏力を疑っている」という。このようなことであるから、親鸞会会員は信心獲得し、報土往生することができない。

・親鸞聖人はただ一箇所のみ、真門釈にて「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」と第二十願を勧められている。ただ、第十九願を勧められた根拠はただの一つもない。このお言葉をもって、すべての人が十九願を通るように親鸞聖人が勧められているということにはならない。

・念仏以外のさまざまな行も善といわれるけれども、念仏にくらべたなら、まったくくらべものにならないほど劣っている。そして極楽浄土へは、人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった。そのような劣行である自力修善、また自力修善による往生を勧める第十九願を親鸞聖人は勧められているだろうか。否、いない。

・一度は真門(第二十願)に入れと仰った親鸞聖人であるが、行は選択本願の名号であっても、それを称える者が自力の心であれば他力の信心を獲ることはできないと教えられている。そして、本願の名号を自分の功徳として称える自力念仏の者は報土往生することはできず、第十九願の行者同様に方便化土へとどまると誡められている。やはり二十願も十九願と同様、十八願の前には捨て去るべき権仮方便の教説であると知られる。

・その権仮方便である二十願でもなく、全く勧められてもいない十九願を勧められているため、親鸞会会員は十九願の門前に押し留められ、十八願への道を封鎖されてしまっている。

・親鸞聖人は三願転入の御文においても、善知識方のお導きによって「十九願を出た」「二十願に入った」と仰っている。「十九願に入った」ではない。三願転入の御文だけ見ても、十九願の勧めは皆無である。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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