聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ根拠、同じ理屈で、本願寺や退会者を非難している親鸞会

親鸞会が”善の勧め”の根拠として利用しているのが、

・因果の道理
・七仏通戒偈
・阿弥陀仏の第19願
・定散二善


です。これらを基に親鸞聖人の三願転入の御文を利用し、「三願転入の教え」なるものをでっち上げて、会員を組織拡大要員として酷使しているのが親鸞会であり高森会長です。しかし、七仏通戒偈や19願、定散二善などを根拠に「親鸞聖人の教えに善の勧めがある」として本願寺や退会者を非難するのは、実は聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ理屈なのです。そのことが『親鸞会教義の誤り』親鸞会は諸行往生10に書かれていますので、以下引用します。

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親鸞会が、獲信のための善を勧める根拠としているのが、七仏通誡偈と19願および『観無量寿経』の定散二善です。親鸞会では、『本願寺なぜ答えぬ』に獲信のための善を勧める根拠が余すところなく書かれてあるという迷信が未だにあります。

しかし、800年前の法然上人に対する非難について少しでも知っているならば、これが如何に噴飯ものであるかが、お分かり頂けると思います。

法然上人が阿弥陀仏の48願中18願を選択本願、王本願とされて、諸善を廃して念仏を専修すべきことを主張されたことは、これまで何度か述べてきました。これに対して、当然のごとく聖道仏教の学僧達から激しい非難が浴びせられました。
『延暦寺奏状』に

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

とあり、この中に

諸悪莫作諸善奉行は寧ろ七仏通誡にあらずや。

と書かれてあります。七仏通誡偈を根拠に、諸善を廃することの誤りを指摘しようとしていることが分かります。
また『興福寺奏状』九箇条の中に、

六、浄土に暗き失。
七、念仏を誤る失。


があります。浄土と念仏という浄土仏教の根本的教義に踏み込んでの非難です。つまり、これまでの浄土仏教の教義に照らしても、法然上人の主張は間違っていると説明したものです。

「六、浄土に暗き失」には、『観無量寿経』の散善について書かれています。親鸞会の公式ホームページの「承元の法難」には、「六、浄土に暗き失」が省かれているのですが、これは意図的なものであることに間違いありません。
この内容は
「用管窺天記」の自業自得の救済論
に詳しく書かれてありますので、御参照下さい。

「七、念仏を誤る失」には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

と念仏往生の18願のみを選択された本願としているが、他の47願も本願ではないか、と法然上人の主張に異議を唱えているのです。

また明恵高弁が『摧邪輪』を著して『選択本願念仏集』を徹底的に非難しています。その中で以下のように

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しているのです。善を勧められた19願は本願ではないのかと。
これ以外にも『観無量寿経』の定散二善を解説し、菩提心等の余行を廃するという法然上人の教えは、間違っていると長々と述べているのです。

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そもそも法然聖人が聖道諸宗から非難を受けられたのは、六度万行や定散二善といった一切の諸善を廃して、念仏一行を往生行として勧められたためでした。よく親鸞会でも出てくる「一向専念無量寿仏」というお言葉がありますが、これには阿弥陀仏以外の諸仏、諸菩薩、諸神を捨てるだけではなく、六度万行や定散二善等の一切の諸善を廃して念仏一行を専ら修するという意味があります。以下、高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげますより引用します。

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一向専念無量寿仏」については法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。


現代語訳

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。


念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」ことが「一向」です。つまり法然上人の仰っている「一向」とは念仏だけを専ら修することです。
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親鸞会のように獲信に向かって善を勧め、実践させているようでは「一向専念無量寿仏」とは言えないのです。法然聖人の教え、そしてその教えを無我に相承された親鸞聖人の教えを否定する邪説です。
他にも、詳しくは三願転入の背景等を参照して頂きたいですが、法然聖人は

・諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
・また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。
・諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。


等のお言葉で分かるように、徹底して諸善を廃して念仏一行を勧められ、そしてこの念仏往生の教えを「下劣根機」だけでなく聖道の学僧達を含めた「天下の諸人」にまで適応されました。そのため諸行を重んじ、念仏を「下劣根機」のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然聖人の教えに対して猛烈に反発したというのです。

親鸞会が本願寺に対して執拗に”善の勧め”を強調しているその根拠、その理屈が、かつて法然聖人を攻撃した聖道諸宗と同じであることがこれでお判り頂けたでしょうか? ですから、本願寺にも呆れられて相手にされないのも当然の話なのです。親鸞会は本願寺が返事をしないのをいいことに、ここぞとばかり勝利宣言をして会員に大本営発表をしているのですが、それに気づかない会員の皆さんは実に哀れなものです。情報統制されているお隣の国の人々とさして変わりません。会からの一方的な情報を鵜呑みにするのではなく、他の情報を取り入れて総合的に判断する大切さを今一度思い出して頂きたいものです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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