「善知識の仰せ」を知らず、それとは真逆な事ばかり教える高森会長

高森会長が、善知識に無条件服従せよと教える時に用いる根拠が

(159)
一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

(192)
一 善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。しかれば、「「道宗、近江の湖を一人してうめよ」と、仰せ候うとも、「畏まりたる」と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。


の『御一代記聞書』のお言葉です。なお、これについては

「なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」と教えながら、親鸞聖人のなされたようにしない高森会長

でも触れていますので、そちらも参照して下さい。

上の御文は、蓮如上人が「たとえ自分が知らないことでも、何事も親鸞聖人のなされたようにするのだ」と仰せになったというものであり、下の御文は、赤尾の道宗が善知識の仰せに対してのあり方を述べたものです。
ここで大事なのは、親鸞聖人がなされたこと、「善知識の仰せ」を正しく知るということです。これが正しく教えられるどころか、全く真逆なことばかり教えられていますから、親鸞会の会員は「善知識の仰せ」を正しく受け取ることができず、高森会長の思惑通り組織拡大要員として利用・搾取されているのです。

その「善知識の仰せ」とは、親鸞会でもよく出てくる蓮如上人のお言葉で言えば、

「善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。」(御文章2帖目第11通)

ということです。一心一向に弥陀に帰命するとは、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神を捨てるだけではなく、往生行として念仏以外の善を捨てて念仏一行を専ら修することを言います。これが親鸞会でもやかましく言われる一向専念無量寿仏ということですが、会員は正しい意味を教えられていないため、いつまでも一向専念無量寿仏できないでいるのです。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
(選択本願念仏集)

念仏のほかに、定散二善や布施、持戒といった余行(余善)を加えたら一向専念無量寿仏にはなりません。往生行として諸善を廃し念仏一行を称えることを一向専念無量寿仏というのです。親鸞聖人の教えに「善のすすめ」があるとして、獲信目指して定散二善や布施をやらせようとしている高森会長が、以下に親鸞聖人の教えに無知であるかがわかりますね。
上のお言葉は法然聖人のものですが、親鸞聖人も、

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。 (一念多念証文)

と仰っています。余の仏を念じない、他仏にうつらないだけを一向専念無量寿仏と思っていたら大間違いです。余の善にうつらない、すなわち念仏に不足を感じて他の善に手出ししないことを一向専念無量寿仏というのです。既に阿弥陀仏がこの私一人を助けようと五劫の間思惟し、永劫の御修行を経て成就された南無阿弥陀仏の他に、何の不足があって諸行・諸善に手出ししようというのでしょうか。人集め・金集めには念仏ではダメで、どうしても「善のすすめ」が要るため、そして救われてもらっては組織拡大要員として利用できなくなるために高森会長はニセの親鸞聖人の教えを吹き込んでいるのです。ですから、よく親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点で出てくる、

19願のすすめ
定散二善のすすめ
宿善のすすめ


などは、みな間違いです。親鸞聖人が全く教えられていない珍しい法です。

こうした「善知識の仰せ」を知らないどころか、それとは真逆な事ばかり教えているものですから、聞いている者が「善知識の仰せ」に「ハイ!」と従えるわけがありません。親鸞聖人の教えを踏みにじる悪知識の仰せに「ハイ!」と無条件服従しているのが親鸞会の会員です。いくら高森会長及び親鸞会の指示に無条件服従していても、獲信・往生はおろかこの世の幸福さえも得られません。従うべきは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」という善知識方の教えです。


【参照】
高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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