「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない

親鸞会はどんどん土蔵秘事化しています。親鸞会公式ホームページは月1~2回更新されているものの当たり障りのなさそうな以前からの繰り言が多く、本部会館の法話の日程もまるで明らかにされていません。私が会員だった頃から導入された、バッジと名札の無い者は本部会館に入れないという制度は今でも健在だと思われますが、2000畳という土蔵の中で高森信者にしか説かれない教え。それはもはや秘事以外の何物でもありません。

さて、平成28年9月1日号の新聞では、論説でも法友通信でも繰り返し「弥陀に救われると人生がガラリと変わる」という内容が書かれています。

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・この阿弥陀仏の大慈悲によって、平生の一念に、大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの難度海の人生は、光明の広海に浮かぶ人生にガラリと変わる。(論説)

・大悲の願船に乗せていただくと、難度海が光明の広海に、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わると、一念の水際を聞かせていただきました。(法友通信)

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ですが一方で、欲や怒りや愚痴といった煩悩は全く変わらない、それを親鸞聖人は『正信偈』で譬えを用いて顕されているというのです。

譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇


これを新聞では、論説と法友通信で次のように書かれています。

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・「大悲の願船に乗せていただけば、日光で雲霧の下は明るいように、欲や怒り、ねたみの煩悩一杯が、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快だ」(論説)

・雲霧の下が明るいかどうかは、煩悩の雲霧は関係なく、太陽が出ているかいないかで決するように、私たちが本当の幸せになれるかどうかのカギは、煩悩にあるのではなく、大悲の願船に乗せていただくか否かにかかっていることが知らされました。(法友通信)

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ですから、以前から聞いている会員の皆さんは、阿弥陀仏に救われたなら煩悩は全く変わらないままで、苦しみの人生が、心は日本晴れの明るく楽しい、大安心大満足の絶対の幸福の人生にガラリと変わると思っていることと思います。煩悩が幸せ喜ぶ元と転じ変わり、どんな苦難がやってきても喜びは変わらない、物凄い幸せな心にガラリと変わると。そして、そのようにガラリと変わらないのはまだ信心決定していないのだと。

私も会員であった頃はそのように思い、浄土往生もけっこうだが今が苦しいので、またこの世そのような身に救われなければ死んで浄土往生することもできないというので、とにかくそうした物凄い心境の変化を体験したい、何とか生きている現在そのような日本晴れの大安心大満足の絶対の幸福になりたいとこの世の幻想的な幸福を求めていました。ですが、それは間違いであると同時に、上の『正信偈』のお言葉は親鸞会で用いられるような意味ではなかったのです。

まず、『飛雲』金剛心と暁より。

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信心決定すると日本晴れの心になると教えていますが、歪曲された誇大解釈です。

『尊号真像銘文』には

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

と仰っています。「」とは、夜明け前の薄暗い状態です。信心をえると、漆黒の無明の闇から、ほんのり明るさが加わった状態になるということです。

『浄土文類聚鈔』にも、

かならず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る。

と表現なされていますように、夜明けの曙にもなっていないのです。
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次に、謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長より。

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五逆罪と謗法罪は、造っている人もあれば、造っていない人もある。
謗法罪を造っている人は決して救われないので、謗法罪を造っているまま救われることはあり得ない。
絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない。


高森顕徹会長の言っていることと、曇鸞大師、親鸞聖人の仰っていることがまるっきり反対なので、会員は信じられないと思いますが、これが現実です。
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続けて、『お坊さんのつぶやき部屋』譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇より。

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 宗祖は『尊号真像銘文』に、

「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、日月の雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

と、太陽や月が雲や霧に覆われていても闇は晴れて雲や霧の下が明るいように、貪りや怒りの雲や霧に信心が覆われていても、往生のさまたげにならないと知ってくださいと、宗祖は私たちを励ましてくださっておられます。
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『尊号真像銘文』のお言葉は、親鸞会で用いられている『真宗聖典』では599ページにあります。
ここで、真実信心の天は煩悩の雲や霧で常に覆われているのですから、やがて訪れるさわやかな秋晴れとは違って曇天です。念仏を称えても喜ぶ心が湧きあがってこず、早く浄土に生まれたいという心も出てこない。こんなに煩悩の群雲や霧があって往生は大丈夫かといぶかる心が出て当然です。信心決定しても浄土の様相は分かりませんから、死後どのような世界に生まれるか、現在は知る由もありません。だから唯円房は『歎異抄第9章』にて親鸞聖人にその不審を尋ねられたのでしょう。
また、親鸞聖人は「日月」と仰っていて、昼間の太陽だけでなく、夜の月も出されて教えられています。阿弥陀仏の摂取不捨の光はたとえ夜でも、ぼんやりしているけれど雲や霧の下まで届いて、疑いの暗闇だけは晴れているということです。

これらにより、

・信心決定したと同時に苦しみの人生が幸せの人生にガラリと変わるというのも、歪曲された誇大解釈
・「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない。
・親鸞聖人のお言葉は、煩悩の雲霧に信心が覆われていても、煩悩は浄土往生の妨げとはならないことを示した譬えで、絶対の幸福なる心の境地を表した譬えではない


などのことが分かります。

とかく親鸞会では現世利益を強調し、絶対の幸福なる幻想的な楽で聞く者を釣り、その絶対の幸福なる幸せになったことをもって浄土往生の証とする節がありますが、それは浄土真宗の教えからは大きく外れます。浄土真宗はそのような教えではありません。どのようにしても苦しみから逃れられない、輪廻を果てしなく続ける我々を浄土に迎え取り、仏にしてやろうという崇高な阿弥陀仏の願いを聞き、自分の計らいを入れずその願いのままにおまかせする。それが浄土真宗であり、そのようにお聞かせいただくのを聴聞というのです。高森会長の邪義をいくら聞いても、それは真宗でいう聴聞ではありません。どうか会員の皆さんには阿弥陀仏の仰せを聞き、仰せのままに後生おまかせする本当の聴聞をされるように願います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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