「凡聖逆謗=才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い」では説明が不十分です(1)

親鸞会発行『顕正新聞』平成28年9月1日号に付属されている保存版Cページに、

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
<凡・聖・逆・謗、斉しく回入すれば、衆水の海に入りて一味なるがごとし>
(正信偈)

のお言葉が載せられています。意味は「なぜ生きる」と同様で、

”阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
 人生の目的が完成した人は、
 才能の有無、健常者・障害者、
 人種や職業・貧富の違いなど関係なく、
 万千の水が
 海に入って一味になるように、
 すべての人が、
 同じよろこびの世界に
 共生できるのだよ”


と書かれています。一見尤もかと思われますが、これでは説明が不十分です。どこが不十分かと言えば、

凡聖逆謗

の部分です。これを親鸞会では

才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い

としていますが、これではを詳しく説明しただけに過ぎません。また、ここではそうした問題よりもむしろ罪の軽重、善根の有無・多少を問題にすべきです。そうしなければ凡聖逆謗の説明にはなりませんし、阿弥陀仏の本願がいかに仏教の常識から逸脱した不可思議の誓願かということも分からなくなります。

一般的な仏教では、死後どのような世界に生まれるのか、涅槃をさとるか、生死にとどまるか、六道の中でも三悪道に堕するか、はたまた無間地獄に堕するかは、その人その人の罪の軽重、善根の多少などによって異なるとされています。そして、転迷開梧を目的とする仏教では、廃悪修善を実践して己の身心を浄化し、究極のさとりである仏陀のさとりを目指せと教えられます。勿論悪人は悪人のままではさとりなど開けるはずもありませんから、悪人には廃悪修善を勧めて善人になるように導いてゆきます。そして善人から賢善な聖者へ、最終的には最高の善を実現した仏陀を目指せというのです。

繰り返しになりますが、悪人は悪人のままでさとりを完成するということはありません。悪人は善人になるように廃悪修善を実践し、自分の心を浄化していかねばならないのです。これは到底、誰もが歩めるという安易な道ではありません。しかも目指すところである仏陀のさとりへは、勝れた素質をもった方が、永劫にわたる難行を実践していくことでようやく到達できるという非常に厳しい教えです。当然、修行を実践するどころか、悪業煩悩にまみれた生活をしている庶民が救われる教えではありません。こうした善人正機・悪人傍機の教え、すなわち善人を正しき教化の目当て(正機)とし、悪人の救いは第二義的(傍機)としているのが一般的な仏教、聖道門の教えです。

これに対して法然・親鸞両聖人が開かれた浄土真宗の教え、すなわち阿弥陀仏の本願は、この上なく重い悪業を抱えていて、自分の中にはさとりを開く手がかりすら持たない煩悩具足の悪人を救って最高のさとりの領域である浄土へ往生させ、仏陀にならせることを規範としています。
阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、本願を建てられるにあたって、五劫という気の遠くなるような長い間、どうすれば普く一切の衆生を平等に救うことができるのか思惟されました。その結果、布施や持戒等の一切の諸行を選び捨て、念仏一行を往生の行とされたのです。それは、例えばもし布施や持戒などの諸善を本願の行としたならば、そうした善のできない者は救いから落ちこぼれてしまうからです。しかも善を実践できる者はほんの僅かであり、実践できずに落第する者の方が圧倒的に多いからです。そこで阿弥陀仏は、至って易くしかも最も勝れた行である念仏一行を選び取られ、私達に代わって兆載永劫の御修行をなさって願行具足の南無阿弥陀仏を成就して下さいました。そして、今や念仏は我々の元に至り届いて、絶えず深い迷いの中にいる我々に喚び続けられています。私達が口に南無阿弥陀仏と称えることは、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲が至り届いて我々に働きかけているという証拠でしょう。念仏を称えることは、まさに本願のお心にかなった正しき行ですから、善人悪人を選ばず、善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、罪の軽重に関係なく往生するのだと言われるのです。

このようなことですから、法然聖人に後生について尋ねた熊谷直実は、「犯した罪の軽重に関係なく、ただ念仏を称えれば往生できます、それ以外に別にしなければならないことはありません」と聞くやさめざめと涙を流しています。法然聖人が理由を尋ねると、「手足を切り、命を捨ててこそ後生助かると覚悟して来たのに、ただ念仏を称えれば往生するとの仰せ、あまりに嬉しくて涙しているのです」と答えています。

『法然上人行状絵図』第27

武蔵国の御家人、熊谷の次郎直実は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心をゝこし、出家して、蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたずね申けるに、さやうの事は法然上人に、たづね申べしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。罪の軽重をいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし、との給をきゝて、さめざめと泣きければ、けしからずと思たまひてものもの給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰せられければ、手足をもきり命をもすてゝぞ、後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、たゞ念仏だにも申せば往生するぞと、やすやすと仰せをかふり侍れば、あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申しける。まことに後世を恐たるものと見えければ、無知の罪人の念仏申して往生する事、本願の正意なりとて、念仏の安心こまかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。


悪人が悪人のままで救われる教え、それが浄土真宗です。そのような教えでなければ、熊谷直実同様、私のような者は到底救われるものではありません。善人にもなれず、それどころか煩悩悪業にまみれそれをどうすることもできず、身心共に穢れ切っている私には、本願念仏の救い以外に救われる手立てはありません。あぁ、本願のかたじけなさよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

これは、ひたすら厳しい修行に打ち込み、廃悪修善を実践してさとりを完成しようとしている方々からは到底想像もできないような論理です。念仏は確かに釈尊が勧められている行に違いはないが、悪人が悪人のまま念仏一行で往生できるなど、天地がひっくり返るよりもあり得ないことだと思うに違いありません。この阿弥陀仏の第十八願の教えこそ真実と思うどころか、悪人を導くための方便の教えとしか考えられないでしょう。
しかも法然聖人は徹底して諸善を廃して念仏一行を勧められ、そしてこの念仏往生の教えを「下劣根機」、つまり悪人だけでなく聖道の学僧達を含めた「天下の諸人」、すなわち善人にまで適応されています。そのため諸行を重んじ、念仏を悪人のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然聖人の教えに対して猛烈に反発したというのです。承元の法難の背景には、こうした仏教の常識からは考えられない教えを法然聖人が説かれていたということを、会員の皆さんには知って頂きたいものです。


ところで、上のお言葉から分かるように、法然聖人は後生について尋ねてきた熊谷直実に、「後生は一大事だ」「必堕無間だ」と恐怖を煽るようなことは一切仰っていません。むしろ逆で、「ただ念仏すれば往生できます」と救いの法を直ちに与えられています。勿論、後生とも菩提とも思わず、悪を悪とも感じない者には我々が普段造りに造っている悪業煩悩罪悪を説く必要もあるでしょう。しかし、親鸞会の話は罪悪の話ばかりで一向に救いの法が説き与えられません。

「難度海を度する大船がある」
「絶対の幸福になれる」
「人生の目的が現在に完成する」
「親鸞聖人の教えの一枚看板は平生業成だ」


と聞く者を現世利益で釣り、どうしたら大船に乗れるか、絶対の幸福になれるか、人生の目的が完成するか、平生業成の身になれるかは

「もっと教えを聞いて下さい」
「続けて話を聞いて下さい」


と先送りします。続きを聞いていけば、

「逆謗の屍である我々の後生は、因果の道理に順じて必堕無間」

と、因果の道理から真実の自己、そして後生の一大事と言った具合に、地獄の恐怖を徹底的に教え込まれます。この後生の一大事の解決はどうすればよいかは、

「三願転入しなければ蟻一匹助からぬ」

そうで、直ちに18願の世界には入れない、19願・20願を通らなければならないと教えられます。それで19願を根拠に阿弥陀仏が本願(18願)において選び捨てられた善(実態は善もどきの善)を勧めてきます。

会員の皆さんは、19願が臨終業成を誓われた願だということも知らず、平生業成の身になれることを夢見て19願を通ろうとしています。阿弥陀仏が本願において選び捨てられた諸善を、選び取ってやろうとしています。善知識方なら、直ちに救いの法を説き与えられるだろうに、地獄の恐怖ばかり植え付けられて一向に救いの法が説き与えられません。
こうした法然聖人と熊谷直実のエピソードからも、浄土真宗の教えと高森会長の教えの違いが分かると思います。会員の皆さんは、機についての話ばかりで救いの法が与えられていませんから、あとは第18願念仏の救いを聞くのみです。大丈夫です。親鸞会的言い方をすれば、直ちに18願の世界に入れますから、今すぐ只今助けるという本願を聞いて念仏して下さい。


幾分話が脇に逸れ、長くなりましたので、凡聖逆謗の説明は記事を改めて書いていきたいと思います。



【参考文献】
Wikipedia - 熊谷直実
慈悲の道徳(2) -法然と熊谷直実-
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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