親鸞聖人の教えは「歓喜正因」でも「ハッキリ正因」でもなく「信心正因」であり、その信心とは南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないこと

親鸞会教義を真に受けていると、救いの前後で物凄い心境の変化が起きると考えがちです。

・三定死の苦しい体験をし、「地獄は一定すみかぞかし」と無間のどん底に叩き落されるのだろう。
・そして間髪入れずに「ただで救うぞ」の弥陀の呼び声が五臓六腑を貫くのだろう。
・救われたその瞬間に雷に打たれる如きピカドン的な体験をするのだろう。
・無明の闇が破られて、暗い闇に閉ざされた心に光が充満し、明る~い心になるのだろう。
・体験したことのない驚きと喜びが心の底から湧き上がってきて、とんでもない幸せな心になれるのだろう。
・日本晴れの大安心大満足、よくぞ人間に生まれたものぞの生命の大歓喜が湧き上がるのだろう。
・「人命は地球より重い」「生命の尊厳」の意味が心の底から分かるのだろう。
・例え苦しみ悩みがやってきても、煩悩即菩提ですぐに喜びに転じ変わる素晴らしい人生になれるのだろう。
・人生の醍醐味を心ゆくまで味わえるようになるのだろう。
・誰に何を言われても微動だにしない金剛心になるのだろう。
・阿頼耶識の中の、過去に自分が造ってきた業が分かって必堕無間の自己がハッキリするのだろう。
・自分だけでなく、全人類が逆謗の屍だと分かるのだろう。
・いつ死んでも極楽参り間違いなしとハッキリするのだろう。
・今まで読んでもよく分からなかった経典やお聖教の意味がすらすら分かるようになるのだろう。
・高森先生のように伝えずにおれない、叫ばずにおれない常行大悲の身になるのだろう。


自分は会員だった頃、会でなされる話からこのような劇的ビフォーアフターが起きると思っていました。特に、苦しみ悩みの人生が、明るく楽しい大安心大満足の人生にガラリと変わると信じていました。これらの他にどんな劇的ビフォーアフターが起きると思っていたか、よろしければ読者の皆様の意見をお聞きしたいと思います。

親鸞会の場合、このような劇的ビフォーアフターの体験を信心決定といい、そのようなハッキリした体験がないのはまだ信心決定していない証拠だというのです。ですから、会員の皆さんは何とかしてこのハッキリした体験をしたいと、そのためには聴聞だ、破邪顕正だ、朝晩のお勤めだ、お布施だ御報謝だ、会長先生や上司や本会の指示に無条件服従だとやっていることと思います。全ては縦の線の一念で決まる、今までの苦労も全て真珠の玉となって戻ってくるのだからと、並々ならぬ情熱を傾けて親鸞会に身も心も財産も捧げる人は少なくないのではないかと思います。

ですが、以上挙げたような想像上の変化、摩訶不思議な体験をもって信心決定とは言わないことを知らなければなりません。なぜなら、浄土真宗の信心は、仏願の生起・仏願の本末を聞いて疑いないことであり、本願力回向の信心であり、南無阿弥陀仏のすがたを心得たことだからです。

しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。(信文類)

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。(一念多念証文)

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章五帖目五通)

信心決定された方の中には、もしかしたら上に列記したような変化や、似たような変化を一部でも感じている方があるかも知れません。しかし、例えば「尽きせぬ喜びが噴き上がってきた」「歓喜の心が日々絶えない」ということをもって浄土往生の証拠とはならないのです。これでは「信心正因」ではなく「歓喜正因」でしょう。あくまで浄土往生の証拠は南無阿弥陀仏、「助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受けた信心です。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(『御文章』4帖目8通)

他力の信心を獲得するといっても、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころです。喜べるとか喜べないとか、自分の感情や幸福感などと、浄土往生とは無関係です。これらは全て煩悩です。煩悩はどれだけあっても浄土往生の妨げとはならないことは

「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない

などで述べてきました。これは逆に関係あったら大変です。極端な話、殺人者に出くわして自分が殺されなければならないとなったら、目の前の殺人者に恐怖・憎悪の感情こそあれ、喜びなどないでしょう。猛スピードで突っ込んできた車に撥ねられねばならないとなったら、そんな状況でのんきに喜んでいられますか? 喜びといっても感情の一つ、感情は煩悩ですから、喜べるから浄土往生とか、喜べないから浄土往生できないということではないのです。


「じゃあ阿弥陀仏に救われても何も変わらないの?」「喜びはないの?」と疑問に思う方があるかも知れませんが、勿論変わる点はあります。阿弥陀仏に救われる前後で何が変わるかというと、顕著なのが

阿弥陀仏 ← 私

私が聴聞して、私が念仏をして、という具合に私が何かして阿弥陀仏の救いにあずかろうとしていたのが、

阿弥陀仏 → 私

阿弥陀仏が、私が往生する因も果も全て用意して恵み与えて下されるものだった、私はただそれをお聞きしお受けするのみであったと気付かされ、阿弥陀仏の一方的な救済に疑い無くなる点です。ここは親鸞会でも言っているようにガラリと変わるところです。手のひらを返したように変わります。劇的ビフォーアフターです。そうしますと、不思議と後生を阿弥陀さまにおまかせした安心感というか、後生への不安がなくなるのです。
かと言って、浄土の様相が見えるとか、心に映るとかそんなことはありませんので、後生はどのような処に生まれるのか私の方からは分かりません。私としては、本願力に身をまかせ、阿弥陀さまのお連れ下さる処に生まれてゆくだけです。たとえそれが地獄であろうと、私の業からしたら元々地獄なので仕方ありません。実際地獄に堕ちたとしても、「だまされた」という後悔は起きようはずもありません。

自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。(歎異抄)

とあるように、私が自力の修行に励んで仏になれるような者であれば「だまされた」という後悔もあるでしょうが、大体聖道門の修行はおろか親鸞会の活動でさえも音を上げてしまうような私ですから。こんな落ちこぼれの私をよくも見捨てず腐らず諦めず、追いかけ続けて本願の網にひっ捕らえて下さったものです。阿弥陀さまには本当に頭が上がりません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。有難い、というより申し訳ない、かたじけない、と言った方が私にはしっくりきます。かたじけなくも、阿弥陀さまが「浄土に連れて往く」と仰せですから、私はその仰せに対して何の計らいもなく「浄土に往くのだな」と受け止めているだけです。過去に「往生ハッキリ」「往生スッキリ」などと言っていた人を親鸞会製作ビデオで観ましたが、私とは感じ方が違うのだなと思うだけです。

こうした阿弥陀仏の大慈悲を法話などで聞いたり、その聞いたことを日々の生活の中でふと思い出したりすると有難さ、申し訳なさ、かたじけなさから喜びの心が起きてまいります。よくもこんな俺が本願を聞かせて頂けたな、この淳心房一人助けるために阿弥陀さまはご苦労されていたんだな、思惟だけで五劫もされたとはどれだけ自分の罪業が深いのだろう、摂取不捨の真言は誠であったな・・・縁に触れ折に触れ思い出すと泣きそうになり、念仏申したくなります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ただ、24時間365日、毎日毎時間喜んでばかりいられるかと言ったらそんなことはありません。相変わらず日々の生活は忙しく、仏法から離れ、仏法を忘れている時の方が私は長いです。特に苦しみ悩みがやってきた時はやはり苦悩に苛まれます。気に入らない相手に対しては怒り憎しみの心を覚えます。苦しくてどうしようもない時、むしゃくしゃしてどうしようもない時、当然あります。とくよしみねさんのブログにある、「いいことばかりはありゃしない!」というのは本願を信じ念仏するようになっても変わりません。阿弥陀さまは、私の生活の面倒まで看て下さるわけではないので、眠くても起きて、仕事をして、家事をして、育児をして、掃除をして・・・と、色々面倒なことでもやらなければなりません。そしてついつい阿弥陀さまの事は忘れて、自分中心の生活となってしまいます。ですから、やはり信後も法は聞き続けて阿弥陀さまが中心であることに気づかせて頂かねばならないのだと思います。信心決定後一切法を聞かなくても浄土往生取り消しとはなりませんが、やはり何らかの形で法に触れなければ法の喜びはなく、一般の人々と同じような喜びしか感じることはできないでしょう。

要は、どんな苦しみ悩み、それまでの喜びがすっ飛んでしまうような災難悪果がやって来ても、どんなに煩悩が吹き荒れても、またその後どんな罪を犯してしまったとしても、それが浄土往生の妨げとはならないと知ってもらえればいいです。信一念の瞬間がハッキリするとかしないとか、喜びの心があるとかないとか、逆謗の屍だと知らされたとか知らされないとか、そのようなことをもって浄土往生の証拠とはならないということです。親鸞会教義に染まっているとハッキリした体験、噴き上がる喜び、後生ハッキリするなど、とにかくハッキリしたこと、とてつもない喜びの身になったことが信心決定だと思いがちですが、それは一旦横に置いて、「助けるぞ」の仰せを聞いて只今救われて往生一定の身となるのが大事です。親鸞聖人の教えは「歓喜正因」でも「ハッキリ正因」でもなく「信心正因」であり、その信心とは南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことですから、ハッキリした体験や絶対の幸福なる幻想的な楽を追い求めるのではなく、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

淳心房さんの書かれた事と被りますが、俺は死んだ後が生きている今、ハッキリ分かるのだと思っていました。
例えば、心が常に浄土色(?)に満たされるようになる、とか。
だからどんな事があっても苦しみを苦しみと感じない「絶対の幸福」になるとか。
会長はよく「氷多きに水多し」の話をしていましたが、こんだけ生きるのが苦しい自殺志願者なら絶対に自殺しない幸せになるんだろう、とか。
番外編として、大学一年で同じクラスだった奴の感想。
「射⚫️の時の絶頂感が永遠につz(ry

Re: R1000様

欲望を満たす喜びしか知らない我々はそんな風に想像するしかないですよね・・・
ちなみにK講師長は、釣りが人生の目的の後輩に、釣った瞬間の喜びが永遠に続くといったような話をしていましたですよ。

罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし

の和讃を、会長は「借金がそのまま貯金となる」とか、「苦しみがそのまま喜びとなる」などと説きますから、こちらとしては随分と誤解をしてしまいがちです。ちなみに

http://komyouji.com/hougocalender/2012-2.html

などに解説がなされていますのでご参照を。煩悩罪障をさとりの智慧ならしめる名号のはたらきを和讃にて讃えているというのに、低俗な教えになっています。会長の本音は、「借金が貯金となるのだから、借金してでも御報謝せよ」でしょう。

そうだろうなぁ、とは思っていましたが、淳心房さんの解説やリンク先を拝見してスッキリしました。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード